村上春樹さんの新作「街とその不確かな壁」、識者はどう読んだか 「対談」独文学者・松永美穂さん×英米文学者・阿部公彦さん
阿部 冒頭でイギリス・ロマン派の詩人、コールリッジの「クブラ・カーン」を掲げています。村上さんがこの詩を意識したのがいつなのか分かりませんが、本書には「クブラ・カーン」の一節に似ている箇所がある。「壁に囲まれた街」自体、コールリッジが書いたザナドゥという桃源郷を思わせます。 「世界の終り―」もそうですが、壁をはさんで自分と影、現実と幻想、生と死といった二項対立が描かれますが、それが不安定で揺らぐところが面白い。同じモチーフを繰り返し書いていても、創作態度としては自然だし必然であると思います。 松永 今年3月に亡くなった大江健三郎さんもそうでしたね。 阿部 同じモチーフを何度も書く人には、特定の場所へのこだわり、空間的なオブセッション(強迫観念)のようなものがあるのだと思います。大江さんにとっては四国の谷間の村で、中上健次さんは和歌山の新宮、村上さんは壁に囲まれた街なのでしょうね。
松永 村上さんの小説には壁だけでなく、穴や井戸もよく出てきます。そしてある建物を下りていくと異世界とつながる。今回は半地下にある図書館長室がそうでした。 ▽「カフカへの反論のようなものを感じる」 ―村上さんにとって「壁」とは何だと思いますか。 阿部 壁に直面した時の無力感、システムの壁にはねかえされる感覚みたいなものが、村上さんの世代の感性としてあるのだと思います。2009年にイスラエルのエルサレム賞を受けた際のスピーチも思い出しました。「ここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」と話していましたよね。 松永 私はカフカを想起しました。「審判」と「掟(おきて)の前で」には門番が登場し、男は最後まで「掟」の中に入れない。でも村上作品に出てくる壁は「壁抜け」できる可能性がある。そこにカフカへの反論のようなものを感じます。 人々を分断する壁は至る所にありますが、抜けて向こう側に行けるというポジティブなメッセージを受け取りました。壁の高さは8メートルと書いてあり、ベルリンの壁の高さの2倍ほどで、随分高い壁ですよね。