道長が退位させた「三条天皇」愛を貫く意外な素顔。次々に後ろ盾を失った天皇を支えた相手
NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第44回は道長が退位に追い込んだ三条天皇の意外な素顔を紹介する。 【写真】花山天皇は居貞親王(後の三条天皇)の異母兄だった。写真は花山天皇ゆかりの元慶寺
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。 ■道長には理解できない三条天皇の行動 「でかしたな、お前」と言わんばかりだ。藤原道長は嫡男の藤原頼通が、天皇家ゆかりの隆姫女王と結婚することになると、「おそれ多い」と恐縮しながら、「男は妻がらなり」と言って、こんなメッセージを送った。 「男というものは、妻の家がらによって良くも悪くもなる」 ほかならぬ道長が実感したことだ。道長は永延元(987)年12月16日、源倫子と結婚。道長からのアプローチだったようだが、倫子の父である左大臣の源雅信は、乗り気ではなかった。
なにしろ、雅信は祖父に宇多天皇、祖母に醍醐天皇の生母・藤原胤子を持つ。天皇家の血を引く、高貴な雅信からすれば、娘を家格に劣る道長のもとに嫁がせたくはなかった。だが、雅信の妻・藤原穆子(ぼくし)が道長を気に入ったため、婚姻を渋々認めている。 この結婚によって、道長は広大な土御門邸を継承。宇多源氏とつながりを持ち、朝廷内で確かな地位を築いていく。息子・頼通が自分と同じように、婚姻によって己の地位を盤石としたことにさぞ満足したことだろう。
そんな道長だけに、三条天皇の行動は、理解しがたいものがあったに違いない。長和元(1012)年2月14日、三条天皇は道長の次女・妍子(きよこ)を中宮としたが、3月に入ると、長年連れ添った妻・娍子(すけこ)も皇后にすると言い出したのである。 娍子の父・藤原済時(なりとき)は、正二位・大納言という官位にすぎず、しかもすでに他界していた。大河ドラマ「光る君へ」では、三条天皇の申し出に道長が「大納言の息女が皇后になった例はございません」と戸惑うシーンもあった。