勇将「太田道灌」は有能すぎて主君に排除されてしまった⁉─忠義を通し過ぎた末の嫌疑?─
だれしもが名前くらいは聞いたことのある太田道灌(おおたどうかん)。どんな武将だったのか、そしてなにをした武将だったのかを紹介する。 ■忠誠を尽くしたつもりが主君に疑われていた男 太田氏は、道灌の父・道真(どうしん)の代に扇谷上杉氏の家宰(かさい)となっていた。家宰とは家政を取り仕切る職掌(しょくしょう)のことで、筆頭重臣といってもよい。関東管領の上杉氏はいくつもの家に分かれており、最も有力だった家が関東管領職を世襲し、鎌倉の山内に居館をおいたことから山内上杉氏と呼ぶ。一方、道灌の主家は、山内上杉氏の一族で、鎌倉の扇谷に居館をおいたことから扇谷上杉氏と呼ぶ。 そのころ山内上杉氏では、家宰の地位をめぐって主君の上杉顕定(あきさだ)に対し、長尾景春(ながおかげはる)が不穏な動きをみせていた。この動きを察知した道灌は、自らの主君である上杉定正(さだまさ)に訴えるものの、逆に謀反を疑われてしまう。しかし、実際に長尾景春が反乱を起こすと、上杉定正が上杉顕定を支援したため、道灌が長尾景春の追討を命じられたのである。 ただ、長尾景春が蜂起したとき、ちょうど道灌は駿河今川氏の家督争いを仲裁するため主力を率いて駿河に入っており、すぐに鎮圧することができなかった。もっとも、長尾景春は、道灌が関東にいないことを承知の上で反乱を起こしたわけであり、道灌としてはいかんともしがたい事態であったことは確かである。 道灌は、長尾景春に呼応して挙兵した武蔵の豊島泰経(としまやすつね)・泰明(やすあき)兄弟らを各個撃破していくが、景春自身を追い詰めることはできなかった。足利成氏が長尾景春を支援していたためである。鎌倉公方であった足利成氏は、幕府と対立して享徳の乱をひきおこし、この頃には下総国の古河に本拠をおいて古河公方と称されていた。関東の武士にとって、足利成氏の権威は絶大であり、軍略に長けた道灌であっても、その権威を克服することはできなかったのである。 やがて、古河公方足利成氏と関東管領上杉顕定らとの間に和睦が成立すると、足利成氏からの支援をうけられなくなった長尾景春は、孤立無援となっていく。こうした状況のなか、道灌は攻勢を強めていき、文明12年(1480)、ようやく景春の乱を鎮定することができたのだった。 道灌は、山内上杉氏に反旗を翻した長尾景春の乱を平定するなど、扇谷上杉氏の勢力拡大に貢献した。しかし、そのことが、むしろ山内上杉氏や主家扇谷上杉氏に危機感を抱かせることになってしまったのである。文明18年(1486)7月、道灌は主君の上杉定正の糟谷館で暗殺されてしまった。最期の言葉は、「当方、滅亡」だったという。 道灌は、自らの輝かしい功績から、主君に対しては微塵も疑いをもっておらず、暗殺されるなど想像だにしていなかったのだろう。 監修・文/小和田泰経 歴史人2021年09月号「しくぎりの日本史」より
歴史人編集部