竹内まりやとTM NETWORKのデビュー作、時代によって左右されるポップ・ミュージック
アーティスト竹内まりやの原点が入っているアルバム
戻っておいで私の時間 / 竹内まりや 作詞が安井かずみさんで作曲が加藤和彦さん。伊勢丹百貨店のCMソングでした。同時発売のアルバム『BEGINNING』の中にも入っていましたね。まりやさんは慶応大学の学生。リアル・マッコイズというバンドの同好会にいて、そこの2つ上の先輩が杉真理さん、杉真理さんはピープルというバンドを組んでいて、そこのキーボードに誘われたことで彼女の音楽人生が始まりました。慶応大学バンド伝説ですね。 当時、プロになる、デビューしたりするという経緯は機会が限られてまして。1つはさっきのTMのようにコンテストに優勝する、オーディションに受かる。それから、ツテをたどる。誰かに誘われるという人間関係がデビューに繋がるというケース、3つしかなかったですね。まりやさんはその頃はプロになる気はなかったんですね。これはインタビューに残っていますけど「ミュージシャンは普通じゃない人間という偏見」があったと。でも、周囲が放っておかないというデビューだったんですね。杉真理さんがプロ・デビューしたときのアルバムのコーラスに入っていて、その杉真理さんの宣伝担当から一人でやってみないかという誘いがあった。ロフト・セッションズという新宿LOFTが作っていたレーベルのお披露目のアルバムに参加することになるんですね。その話は曲の後に続けますね。 このアルバム『BEGINNING』からお聴きいただきます。「サンタモニカ・ハイウェイ」。 サンタモニカ・ハイウェイ / 竹内まりや 作詞が竹内まりやさんで、作曲と編曲がセンチメンタル・シティ・ロマンスの告井延隆さん。さっきのロフト・セッションズの続きの話ですけど、これはアマチュアの女性ばかり集めたものなんですね。そのアルバムのバックをセンチメンタル・シティ・ロマンスとムーンライダーズがやっていたんです。まりやさんはそのアルバムの中で鈴木茂さんの「8分音符の詩」を歌ってます。もう1曲歌っていたのかな。2曲歌っている。そのアルバムのプロデューサーが牧村憲一さんなんですね。この番組でも1カ月牧村さんの特集を組んだことがありますが、レジェンド・プロデューサー。彼がまりやさんにデビューの話をしたんですね。 新宿LOFTは1976年にオープンして、その翌々年ですね。オープンしたオーナーの平野悠さん。今もお元気ですが、平野さんと牧村さんが『1976年の新宿LOFT』という本を出しております。その中にもロフト・セッションズの話は出てきますね。牧村さんは大貫妙子さんも手掛けていたんですね。まりやさんは大貫さんのファンで、大貫さんのレコーディングを見に行って、そのときにエレベーターで加藤和彦さんとバッタリ会っている。加藤さんは「8分音符の詩」を歌った子というので、彼女を知っていたんですね。あれ歌ったの君かというところから始まって、加藤さんは伊勢丹のCMを歌う人を探していた。まあいろいろなストーリーが重なります。 まりやさんはデビューのときに条件を出していて、ここが普通の人と違いますね。海外レコーディングをやることと、好きな作家に頼むこと。それを全部OKしたのが牧村さんだった。ですからアルバムの半分はロサンゼルス録音で、半分は日本でセンチメンタル・シティ・ロマンスがバックを務めております。アルバムの作家すごいですよ。加藤和彦さん、山下達郎さん、杉真理さん、告井延隆さん、細野晴臣さん、大貫妙子さん、全11曲。その中で彼女の唯一の作詞作曲だったのがこの曲ですね。「すてきなヒットソング」。 すてきなヒットソング / 竹内まりや 1978年11月発売竹内まりやさんのデビュー・アルバム『BEGINNING』から「すてきなヒットソング」。作詞作曲が彼女ですね。アルバムの中で曲を書いているのはこれだけなんです。詞がさっきの「サンタモニカ・ハイウェイ」とこの曲と2曲だけ。彼女はシンガー・ソングライターというつもりはなかった。でも、アーティスト竹内まりやのすべてと言ってしまいましょうかね、原点がここに入っている、そんな1曲じゃないでしょうか。このアメリカン・テイストみたいなものが2枚目のアルバム『UNIVERSITY STREET』に繋がっていくんですね。と言っても『UNIVERSITY STREET』の中でも自分の曲は2曲だけでさっき名前があがったような人たちが曲を提供している。シンガー・ソングライターじゃなかったことが裏目に出るんです。メディアの中でアイドル扱いされてしまう。で、芸能人運動会とか、芸能週刊誌のグラビアに出るようになって、彼女は幻滅してしまってアルバムを5枚出して、1981年に引退する。そこまでがまりやさんのアーリーストーリーですね。