春画を描かせて...蔦屋重三郎がスターダムに押し上げた「無名の絵師・喜多川歌麿」
一方で王道、一方で「エロス」を描かせる巧みなプロデュース
得意な分野で才能を生かす。それと同時に、戯作者や絵師たちに新たな挑戦をさせて開花させるのも、蔦重が成功した要因でした。人見知りではあったものの、写実的な精密描写が得意な歌麿。植物や動物を描くのは得意でしたが、『画本虫撰』と同時に、蔦重は彼の才能を新たなジャンルへも向けさせます。 それが自然の絵とはまったく逆の「春画」というジャンルだったのです(ちなみに、交合図を春画と呼ぶようになったのは後年のことで、江戸時代は「枕絵」や「笑絵」、あるいは笑絵を略して「ワ印」などと呼んでいました)。 多くは男女がからみ合う姿を描くものですが、その分野への人間の関心は古代から尽きないようで、古くから日本でも描かれてきました(詳細を知りたい方は拙著『春画入門』〈文春新書〉をご一読ください)。 そして木版画による印刷物が大量に出回るようになってからは、春画の需要も大きく広がるのですが、風紀の乱れを恐れ、幕府はたびたび規制をかけます。「出版禁止令」により、春画や好色本の類は販売が禁止され、出版物は幕府の検閲をパスしたものしか店頭に置けなくなりました。 ところが反骨精神の旺盛な江戸っ子は、「表で売れないなら裏で売ればいい」と、秘密を守れる客だけ店の奥に通して、こっそりと春画の販売を始めます。しかも幕府の検閲を通す必要がないのを逆手に取って、絵柄はもちろん、彫りの複雑さや摺数の多さ、贅沢な絵具も使い放題です。 それには腕利きの彫師や摺師が必要で、さらにそれだけ経費をかけて高価な春画を作るのだから、人気絵師の作品でなければ売れません。現代と感覚が違うのは、当時は「版元から春画を依頼されることが一流の職人の証」だったことです。 実際、1700年代に摺られた春画には、格調高い名作が多くあります。このような風潮の中、蔦重は歌麿を起用して、初の春画制作に乗り出したのです。ちょうど幕府の禁令が緩んでいた田沼意次の時代。その隙をつき、蔦重は歌麿に、大判12枚ものの『歌まくら』という春画集の下絵を依頼しました。 蔦重と歌麿が拠点にしていたのは吉原です。「春画」を描くには、題材もモデルも事欠きません。ただし普通の春画では、法に触れるリスクまで冒して、皆が手に入れたくなるような作品にはなりません。そのためには画力だけでなく、江戸の人々をあっと驚かせる大胆さが必要でした。そのような蔦重の要望に、歌麿は見事に応えます。 『歌まくら』の12図は随所にこだわりが詰め込まれた傑作で、情欲を催すというよりも、アーティスティックで創造力に富んだ作品となっています。第1図の河童に犯される海女の絵に始まり、若衆の浮気心を責める年上の女、人妻の浮気、毛むくじゃらの男の腕に嚙み付いて抵抗する娘、肥満の中年夫婦などが続き、そして最後はなぜかオランダ人夫婦の交合図です。 それらはどれも、これまでの春画には見られない表情の豊かさで、通常は全身を描くものを、遠景にしたりアップにしたり、後ろ向きで顔を見せないなど、構図も凝りに凝っています。特に最後のオランダ人は、図柄がグロテスクで正視に耐えないのですが、巻き毛の1本1本を彫った彫師の執念にも感服します。 いずれにしろ、一方で万人向けの自然を描いた絵、もう一方で大人を喜ばせるアダルトな絵......と、蔦重は表と裏の二方面で、喜多川歌麿という才能を世に知らしめたのです。彼のプロデュース力が只者でないのは、この点からも明らかです。
車浮代(時代小説家)