料理不得手な男性が奮闘…娘2人に弁当作り10年超 亡き妻への誓い
福岡市南区の人材育成コンサルタント、久保山武さん(56)が10年以上、娘2人の弁当を作り続けている。きっかけは闘病の末に亡くなった妻との「約束」。「子どもたちをしっかりと育て上げる」と誓い、今日も早朝のキッチンで包丁を握る。 【写真】久保山武さんと手作りしている娘2人の弁当 久保山さんは大学卒業後、大手電機メーカーに勤め、結婚。大阪で働いていた。2人の娘に恵まれたが2008年夏、春から体調を崩していた妻の恵美子さんの胃がんが判明。次女が生まれてわずか4カ月だった。 「目の前が真っ暗になった」。長女もまだ4歳。看病と子育ての両方は抱えきれず、夫婦の実家がある福岡県内に希望して転勤。程なく休職し、妻の看病に専念したが、抗がん剤の効果はなかなか出ず、仕事には約1年後に復帰した。 妻の闘病生活から2年近くがたった10年5月17日昼過ぎ、妻の妹から容体悪化の知らせがあり病院に急行。もうろうとする恵美子さんに声をかけると、大きく目を見開き気付いてくれた。子どもたちも駆けつけ回復を祈った。夕刻、両目にうっすらと涙を浮かべた恵美子さんは数分後、静かに目を閉じ、39年の生涯を閉じた。 遺言はなかった。だが久保山さんはあの涙をメッセージと受け取った。「『パパ、頼んだよ。2人をしっかり育てて、立派な女性になるまで見守ってね』と語っているようだった」 * * 翌年、長女が弁当持参が原則の私立小学校に入学した。当初は有料で提供される昼食にしたが、口に合わないと言い出した。久保山さんの頭に妻の涙が浮かんだ。「食事は体の基本。自分が作ろう」と思い立った。 男性向けの料理教室に通ったことはあったが、そもそも料理は不得手。午前6時に起きてご飯を炊き、肉や魚を焼く。慣れない手つきで卵焼きも作る。栄養バランスも考えないといけない。悪戦苦闘の日々が始まった。 「弁当を見せ合いっこするだろうな。茶色だらけの見た目だとかわいそうだ」と、赤、緑、黄色と色合いにも気を使った。その後、次女も同じ小学校に入り、弁当は2人分に増えた。 長女は肉、次女は魚と、違う味の好みに応えるのも一苦労。「米を詰めすぎないで。食べにくい」と注文が付いたり、次女が食べ残したり。弁当箱から汁が漏れ、教科書がびしょぬれになった時は落ち込んだ。 仕事帰りに冷蔵庫の中を思い出しつつ、翌朝のメニューを考えるようになった。一品増やすためにコンビニで総菜を買って帰ることもある。肩の力を抜き、冷凍食品も活用して続けてきた。弁当と一緒に作るようになっただしの利いたみそ汁を毎朝食べて、娘たちは家を出る。 * * 「毎朝はつらく、やめたいと思ったことも。娘に(味を)褒められたこともない」と苦笑いする久保山さん。それでも弁当を要らないと言われたことはない。学校から帰ってきた娘たちは「ごちそうさま」と言い、弁当箱を洗うようになった。 勤務先の福岡市のショールームでは妻の死後、食の催しを始めた。がんで早世した妻と家族の暮らしをつづった「はなちゃんのみそ汁」の著者、安武信吾さんらを講師に招いて食の大切さを訴えた。 昨年、久保山さんは会社をやめて独立。長女は大学2年(20)、次女は高校2年(16)になった。来年は恵美子さんが亡くなって15年になる。 父の気持ちを「娘には感じ取ってもらっていると思う」と久保山さん。「今言ってもらわなくてもいい。将来、母親になると思い出すかもしれない。その時は、自分たちの子どもにおいしいご飯を作ってあげてほしい」とほほえんだ。 (小川俊一)