「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(4)~ストーリーにこだわる文化と年月日にこだわる文化~ 西洋文化編
4月1日、新たな元号「令和」が発表されました。元号は、日本だけでしか使われていない時代区分ではありますが、新聞やテレビなどで平成を振り返るさまざまな企画が行われるなど、一つの大きな区切りと捉える人が多いようです。その一方で、元号に対して否定的で「西暦に統一したほうがいい」という意見も少なからず聞こえてきます。 そもそも、人はなぜ年を数えるのでしょう。元号という年の数え方に注目が集まっている今だからこそ、人がどのような方法で年を数えてきたのか、それにはどのような意味があるのかについて考えてみるのはいかがでしょうか。 長年、「歴史における時間」について考察し、研究を進めてきた佐藤正幸・山梨大学名誉教授(歴史理論)による「年を数える」ことをテーマとした連載「ホモ・ヒストリクスは年を数える」では、「年を数える」という人間特有の知的行為について、新しい見方を提示していきます。
ローマの休日:ストーリーは記事なのか?
映画『ローマの休日』(1953)の終わり近くの一場面である。新聞記者役のグレゴリー・ペックが、オードリー・ヘップバーン扮するアン王女のお忍び休日を、写真とともに新聞に掲載することを編集長に拒否する場面だ。 グレゴリー・ペックの机の上を探し回りながら、編集長が叫ぶ“Now, come on, come on, come on. Where is that story?” グレゴリー・ペックは“I have no story”と応じる。 この場面が日本語の字幕スーパーでは、次のように表示されている。編集長「さあ、さあ、さあ今すぐ出せ。記事はどこだ」。グレゴリー・ペック「記事はありません」 ストーリー(story)を「記事」という日本語で表現したのは、日本の新聞人が同じ状況で使う「記事」という表現を採用したからであろう。翻訳というより、むしろ「超翻訳」とでも称すべき名訳だと思う。
羅生門:証言の食い違いがなぜ重要なのか?
歴史の研究をしている欧米の学者には、映画ファンが多い。中でも、黒澤明の『羅生門』(1950)は大変評価の高い作品である。なぜか。理由はそのストーリーにある。ひとつの事件を、それに関わった人々が、全く違う風に回想する内容だからだ。 日本では決して評判がよくなかったこの映画が、なぜ1951年にヴェネチア国際映画祭のグランプリである金獅子賞を受賞したのか、またそれ以来半世紀にわたって、日本映画の古典として、絶えることのない人気をなぜ欧米で得ているのか。 その理由は、ひとつの物事を複数の視点から見ること、加えて、ひとつの解釈に対して別の解釈を提出すること、というヨーロッパ文化の伝統に合致していたからだ、と私は解釈している。 これは、歴史の分野でも同様である。欧米の歴史研究の歴史は、過去のある出来事に関してひとつの解釈が提案されると、次に、それとは異なる解釈が提出され、またそれに対して別の解釈が提起される、ということの果てしない繰り返しである。解釈・再解釈・再々解釈の積み重ねがヨーロッパ文化の思考基盤だともいえる。