「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(4)~ストーリーにこだわる文化と年月日にこだわる文化~ 西洋文化編
古代ヘブライ人もストーリー好きだった
古代ヘブライ文化の出発は、『タナハ』(Tanakh)と題される書物である。これはユダヤ教徒にとっての聖書である。日本では一般に『旧約聖書』という名前で知られている。 『旧約聖書』はキリスト教徒の命名である。キリスト教徒だけの聖書である『新約聖書』と区別するために『旧約聖書』と呼ぶのである。つまり、イエス・キリストを神の子とは認めないユダヤ教徒にとって、『タナハ』即ち『旧約聖書』は、唯一の聖書である。 私はこの『旧約聖書』を何度も読み返してみたが、どうしても歴史書としか思えないのである。ユダヤ民族4000年の壮大な歴史叙述そのものではないか。 「創世記」から始まる『旧約聖書』は、全36の書から成り立っているが、徹底して、ストーリーが中心の叙述である。ただ「列王記」は即位紀年を記しているが、あくまでストーリーを展開してゆく上でのことである。 これはまさに現在の私たちが言うところの歴史叙述に他ならない。にもかかわらず、ユダヤ民族にとって、これは聖書なのであり、歴史書ではない。私は知人のユダヤ人歴史家数人にこのことを確認したが、皆答えは同じであった。「タナハは歴史書です。しかし私たちにとっては聖なる書なのです」 ここで付け加えておかなければならないのは、キリスト教徒にとっての聖書である『新約聖書』に出てくる絶対年代への言及は、あの大きな叙述の中で、実は、たった一カ所しかないことである。(*新約聖書・ルカによる福音書第3章を参照されたい) 古代ギリシャ・ローマ文化と古代ヘブライ文化の双方ともに、ストーリーに主眼をおく文化であって、年月日に力点をおく文化ではなかったといえる。
ストーリー+ストーリー=ストーリー
古代ギリシャ・ローマ文化と古代ヘブライ文化という、このふたつのルーツを持つ西洋文化は、ルネッサンス以降、両者が絡み合いながら、近世・近代そして現代のヨーロッパ文化を形成してきた。この伝統は歴史叙述の伝統としても受け継がれている。 例えば、イギリスの近代歴史学の生みの親といわれる学者に、ウイリアム・カムデン(1551~1623)がいる。カムデンは、オックスフォード大学にある、彼の名前を冠した講座であるカムデン古代史教授職(Camden Professorship of Ancient History)により、現在に至るまでその功績を称えられている。 イギリスを代表する歴史家といっても過言ではない彼の代表作である『ブリタニアBritannia』(1586)を読んでみると、ストーリーが中心であって、年月日への言及はほとんどない。 また、近代ヨーロッパの歴史書として有名な、イギリスの歴史家エドワード・ギボン(1737~1794)の『ローマ帝国衰亡史』や、ドイツ人歴史家レオポルト・フォン・ランケ(1795~1886)の『近世史の諸時代について―世界史概観』や、フランス人歴史家ジュール・ミシュレ(1798~1874)の『フランス革命史』等を読んでみても、ストーリー中心の叙述であり、絶対年代への言及は、極めて少ない。 これらヨーロッパ人歴史家の採用している叙述形式は、私には、松本清張や海音寺潮五郎、子母澤寛といった日本人作家の歴史小説と同じもののように思える。そして現代でも、欧米の歴史家の多くは、新しいテーマをつくり、それに沿うストーリーをつくることを歴史叙述の眼目としている。このことを踏まえて、次回は東アジアの文化について述べる。 著者紹介:佐藤正幸(さとう・まさゆき)1946年甲府市生。1970年慶應義塾大学経済学部卒。同大学大学院及びケンブリッジ大学大学院で哲学と歴史を専攻。山梨大学教育学部教授などを経て、現在、山梨大学名誉教授。2005~2010年には、President of the International Commission for the History and Theory of Historiography(国際歴史学史及歴史理論学会(ICHTH)会長)を務めた。主著に『歴史認識の時空』(知泉書館、2004)、『世界史における時間』(世界史リブレット、山川出版社、2009)、共編著:The Oxford History of Historical Writing :Volume 3:1400-1800 , (Oxford University Press, 2012)など。