「この現実を知って欲しい」能登を一歩離れると「普通」に暮らせる罪悪感 現地出身記者が思い返した美しい風景と〝語り部〟の言葉
石川県能登町や七尾市で小学校から高校までを過ごした。祭りが豊かな能登町、輪島市の海に沈む美しい夕日、カキを食べた穴水町、吹奏楽コンクールや模試の受験で訪れた珠洲市。それぞれの地域が日常の思い出と結びついている。記者となって8カ月、その故郷で大地震が起きた。 避難所のうそ、今も罪悪感 「ふるさとを裏切ったのでは」自主避難の男性
取材で入った現地で目にしたのは一変した風景。高齢化が急速に進み、家もなく人もいない能登が脳裏をよぎった。伝えたい、忘れてほしくないのは美しい風景や未来への願いだ。そして、ある言葉を思い出した。東日本大震災の被災地で聞いた「語り」だ。(共同通信=山崎祥奈) 【記者が音声でも解説しています】「一変した故郷、能登出身記者が見つけた希望と伝えたいこと」 ▽みんなで食卓を囲み笑った祖母の家が… 地震が起きた1月1日は勤務先の秋田県にいた。七尾高校で同級生だった友人が遊びにきていた。2人で新年を迎え、夕方には初詣に出かけた。手を合わせようと列に並んだとき「能登地方で震度7」の速報が鳴った。秋田でも震度3を観測したが、歩いていたためか揺れは感じなかった。「震度7」の文字が信じられない。 観測したのは、祖母の家がある志賀町富来。何度も電話をかけ、ようやくつながった。 「ばあちゃんの家が崩れとる」
電話に出た叔母の声は涙が混ざり、震えていた。当時祖母は1階にいたがかろうじて無事だった。ガガガガというすさまじい音とともに2階部分が落ちてきたという。崩れたのは隣の部屋までで、揺れが収まった後、裏口の隙間から脱出していた。 倒壊した祖母の古い家には思い出が詰まっている。 毎年8月終わりに開かれる「富来八朔祭礼」では、みこしがにぎやかに家の前を通る。暑い夜、縁側に座って、見知らぬ人でも中に呼び、もてなした。整理整頓が苦手な祖母に代わり、母とたびたび一緒にキッチンを片付けに行った。亡くなった祖父の仏壇に手を合わせた。いとこたちと広い家を駆け回り、親戚みんなで集まり食卓を囲んで笑った。何度も敷居をまたいだ家だった。 ▽託された思い「世の中にこの現実を伝えて」 友人の多くも被災していた。能登で生活している人はもちろん、休みで遠方から帰省していた人もいた。SNSには安否確認や物資の情報、注意喚起、被害の状況といったたくさんの投稿があふれている。故郷は被災地になってしまった。