【実録 竜戦士たちの10・8】(15)巨人と2度目の交渉が決裂した槙原寛己に地元・中日が即座に反応
◇長期連載【第1章 FA元年、激動のオフ】 1993年11月8日にFA宣言の手続きを終えた落合博満は、日韓親善野球(ソウル)の準備のため、9日には中日の沖縄秋季キャンプに合流した。アップとストレッチだけの軽いメニューを終え報道陣に囲まれると、横浜を解雇された高木豊らについて「彼らがFAし移籍した場合も、獲得球団は補償金を払わなければならないのか?」と逆質問。年俸9840万円の高木がFAした場合、獲得球団は最大1億4000万円余りを支払わねばならない。 コミッショナー事務局は「(補償方法は)両球団の話し合いでも決められるので、補償金を受け取るとは考えにくい」と回答したが、選手会に属さず自らも宣言した落合が、FAルールの不備を突いた格好となった。 そんな中、FA制導入を早くから推進してきた巨人に衝撃が走った。この日の練習後、球団代表の保科昭彦、同代表補佐の関本哲男が槙原寛己と東京都内のホテルで2度目の話し合いを行ったが、交渉はまたしても決裂に終わったのだ。 槙原の希望は現状の7800万円からFAした場合の上限(1・5倍)相当の1億2000万円。だが球団の提示は1億円。この2000万円の溝は、ついに埋まることはなかった。 「条件面で合わなかったということです。球団の提示が1億だったらFAすると言ってきましたが、今回はそれに近い数字だったので決意しました。明日にでも書類を投函(とうかん)に行きます」 東京都世田谷区の自宅に戻った槙原は、ぶぜんとした表情で集まった報道陣にFA行使を表明した。ただ、球団サイドにも譲れぬ事情がある。 「隔たりが大きく、引き留めるのが難しいと思われても仕方がない。要望を全て聞いたら、あとあとの前例になる。何が何でも引き留めたいが、限界がある」 保科のコメントは“流出やむなし”ともとれる内容だった。 この交渉決裂に、いち早く反応したのが中日だ。午後9時前に沖縄で知らせを聞いた高木守道監督が「最低10勝はできる投手。フロントが動いてくれるものと思っている」と言えば、名古屋にいた球団社長の中山了も「決裂した理由をよく調べてから、正規の手続きを経て(獲得に)参加したい」と話した。 槙原でFA元年の宣言選手は5人目。そのうち2人が巨人から…。現場トップの長嶋茂雄監督も、この計算外の事態には居てもたってもいられぬ心境だったに違いない。 =敬称略、金額は推定
中日スポーツ