鈴木おさむ「SMAP 5人旅、震災後10日のスマスマ生放送…長年のライバルであり、一番褒めてほしい人たちを失い、僕は引退を決めた」
◆仕事で体を酷使し、間質性肺炎を発症 引退を決めた理由は他にもあります。僕は数年前、肺胞の壁に炎症や損傷が起こる間質性肺炎を患いました。これは進行の度合いによっては、5年生存率が30%程度になるという非常に怖い病気です。 僕には笑福(えふ)という8歳になる息子がいるのですが、病気を発症したのは彼が生まれて2年目くらいの時でした。医師から説明を聞いた時は本当にショックで、「こんな小さな子がいるのに、ここで死んじゃったらどうするんだ」と目の前が真っ暗になりました。 毎日のように〆切があり、寝ていてもうなされて熟睡できない。ストレス過多で心身ともにギリギリの状態でした。仕事量を減らせばいいと言っても、僕の場合、自分でやりたいことを増やしちゃっているのでどうにもならないんですよ(笑)。そこで思い切って、仕事そのものを辞めることにしたのです。 妻(「森三中」の大島美幸さん)に「引退しようと思うんだけど」と告げた時は、一言「おせーよ!」と言われました。彼女も僕のことを、相当につらそうだと心配しながら見ていたそうです。 SMAPへの思いは、今回出版した僕の小説『もう明日が待っている』に込めました。最後まで義援金の告知をしていた彼らに倣い、この本の著者印税はすべて能登半島地震の義援金として寄付すると決めています。
◆書く才能を伸ばしてくれた「学習計画ノート」 引退して自分の人生を振り返ってみると、やっていることは昔も今も変わらないなあとしみじみ思います。 僕はスポーツ用品店と自転車屋さんを合わせた店を営む家に生まれ、寡黙な父と明るい母のもとで育ちました。余談ですが僕が25歳の時に、学校との受注契約が切られたことが原因で、父は1億円の借金を抱える立場に。打ち明けられた際は途方に暮れましたが、そんな僕に某テレビ局のディレクターは「その話、面白いから会議で話してよ!」言うではないですか。 そんな馬鹿なと思いつつ会議で披露したところ、本当にウケて。「そうか、この業界ではこういうことも面白がるくらいでないとダメなんだ」と気持ちを立て直し、数年かけて無事に完済することができました。 ものづくりの楽しさを知ったのは小学6年生の時です。当時、僕は生徒会長をやっていたのですが、学校では毎月、全校生徒の前で「この町の人口は」とか「ここで獲れる海産物は」といったことを発表をする決まりがありました。 でも、そんなの全然面白くないじゃないですか。そこで大映ドラマのパロディーを自作して皆の前で演じたところ、これがものすごくウケて(笑)。その後も国語の時間に友達をモチーフに小説を書いたら、先生が「独創的で面白い」と褒めてくれたりして、すっかり創作の楽しさに目覚めてしまったのです。 なかでも大きかったのは、中学時代に提出していた「学習計画ノート」です。他の生徒は2年生くらいになると出さなくなるのですが、僕は先生が書いてくれるコメントが嬉しくて、そして先生を楽しませたい一心で、毎日せっせと書き続けていました。 やっぱり自分の書いたものにリアクションしてもらうと張り合いが出るんですよね。僕の場合、大人になってからはそれがバラエティー番組の構成やドラマの脚本に変わっただけで、やっていることは当時と同じ。僕の才能を伸ばしてくれたのは、間違いなくあの時の先生とのやり取りだったと感謝しています。