一市民が残した戦中戦後の飾らない日記 群馬で発見「侵略で、殺りくだった」
戦争は侵略で、ただ民族の殺りくだった―。太平洋戦争末期から戦後にかけ、現在の群馬県邑楽町に住んでいた男性が書いた日記が見つかった。分析した元学芸員は「時代に翻弄(ほんろう)された当時の人々の率直な心情や認識を伝える貴重な日記だ」と話している。(共同通信=赤坂知美) 日記の主は、旧高島村出身で、戦後に邑楽町長を務めた相場定利さん=1992年に70歳で死去。 1945年1月から3年間、約130ページにわたりほぼ毎日つづられている。自宅離れの押し入れから息子の一夫さん(77)が今年2月に発見し、話を聞いた県立歴史博物館の元学芸員である原田恒弘さん(86)らが読み込んだ。 町史によると、1945年2月10日、2機の米軍爆撃機B29が田んぼの中に墜落した。日記では「われらは地上にあり手をたたいて万歳を叫ぶ」と喜んでいる。検閲が厳しい戦時中、定利さんはカメラを服の下に隠し、ボタンの間から機体の残骸を撮影したという。写真は自宅に残っている。
終戦が伝えられた8月15日には「何の為に死んだか。また戦をしたか分からない」と空虚さを吐露。日清戦争から続く一連の戦争を挙げ「ただ民族の殺りくであった」と記した。翌年の元日には、航空機が爆弾を落とす絵と共に「侵略の夢さめて冷厳な現実は彼の偉大なるB29の爆弾によって成された」とあった。 他に日常生活や村の自然などを描写。原田さんは「私的な日記で、戦争に対する人々の思いを等身大で伝えている。戦時を生き抜いた人々の認識や心情を残していくことも重要だ」と強調。一夫さんは「当時の父は20代半ば。今も変わらない村の自然描写の中に、戦争に苦悩する若者の思いが見えた」と話した。 日記や写真は調査終了後に町に寄贈し、一般公開する予定という。