「ピアノを弾くことが恐怖に…」 高級スーツ企業を率いる女性社長、若き日の挫折とは
◆マーケティングへの興味からアメリカ留学へ
――先代の「頑張り」について教えてください。 父が病気になってからが、特に大変だったと思います。 母は、父が亡くなるまでの20年ほど、ずっと父の病気と向き合っていました。 父を看病しながら家事と育児をこなし、私が中学3年生の頃に銀座テーラーの仕事に入りましたが、当時も食事制限のある父の食事を用意するために早めに仕事を切り上げるなど、家庭を切り盛りしながら仕事をしていた姿を覚えています。 ただ、母は、自分が経営者として苦労したので、娘である私たち姉妹に、無理に継がせようという考えはなかったようです。 でも、私は留学先のイギリスで、メディアを通して母の頑張りを知り、「ここで家業が絶えてしまうのはもったいない」と思っていました。 ――小倉代表が留学から帰国したきっかけは? 音楽留学の挫折を経てから帰国し、自分の人生について真剣に考えはじめました。 「ピアニストになりたい」という夢をあきらめ、どうやって生きていこうかと最初は迷いました。 当時はちょうど就職氷河期で、新卒でもなければ社会人経験もない私には、就職がなかなか難しい状況でした。 そんな折、母からの依頼で、銀座テーラーの路面店でアルバイトをすることになったのです。 当時、母が立ち上げたレディース部門の小売店で、あくまで既製服の販売員としての仕事でした。 2002~2003年のことですが、日本は非常に不景気で、店の前をたくさん人が通るのに誰も入店してくれない。 客を店に呼び込むのはすごく難しいことだと実感しました。 この経験から、アメリカの大学にマーケティングを勉強しに行くことを決めました。
◆アメリカで高まった事業承継への思い
――アメリカではどのような経験をしたのですか? コミュニティカレッジに入学し、語学を半年学んでからビジネスコースに入り、マーケティングを勉強しました。 留学期間は2年半です。 ちょうどその頃、母がメディアに多く取り上げられ、非常に有名になりました。 「主婦から転身した女性経営者」として注目され、赤字だった企業を継承して黒字に回復させたことや、母の経歴が非常にドラマチックだったこともあり、テレビのビジネス番組からバラエティまで、とにかくさまざまなメディアに出演していました。 銀座テーラーが有名になっていく様子を、アメリカからインターネットで見ながら、「会社は生き物なのだ」と実感しました。 せっかく自分が勉強していることを活かし、何とか母に返していきたいという意識が高まっていきました。 そして、母と国際電話で「帰国後にどうするか」という話をしました。 「母が立て直して成長させた事業を、母の代で終わらせてしまうのはもったいない」という素直な気持ちを伝え、正式に入社が決まりました。 ――「会社は生き物」と実感したとのことですが、どのような意味でしょうか? 会社には「安定」ということが絶対にありません。 外的なインパクトがプラスにもマイナスにも働きます。 会社それぞれに個性があり、ときどきの社会状況や、トップに立つ人によって変わってきます。 また、入社する人材によって、会社の雰囲気や風土も変わるでしょう。 人間や動物の体調と同じように、会社にも「体調」のようなものが常にある、というふうに考えています。 母は銀座テーラーに入り、最初は苦労もしましたが、やり方次第で会社がどんどん元気になり、それとともに社員も元気になっていきました。 やはり経営者のモチベーションが関わってくるので、経営者が元気じゃなければ会社は元気にならない。 その意味では、組織は本当に一人ひとりがつくっていくものなのだと思います。 そこに絶対的な法則やルールはなく、かといって哲学的に取り組んでもうまく行かないことは非常に多いですし、論理的にきちんとやったとしても、それが正解だとは限りません。 ――マーケティングを学ばれたのは、その正解に近づくためでしょうか? そうですね。 情報や数字は紛れもない事実ですから、その事実に基づいてどういう結果が生まれるか、というセオリーがあります。 だからこそ事実、つまり会社の状態を数字で見ることが大事です。