”剣道の達人”特攻隊長は海戦で大けが 特攻出撃なく郷里に帰ったものの~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#54
復員後は”身体に鞭打ち”北海道へ
特攻出撃なく命永らえた幕田大尉は、郷里の山形へ帰るが、抑留された父に代わって一家を支えるため、北海道へ働きに出る。 (刀菊山人「なまくら剣談(二十九)幕田大尉と石垣島事件」(刀剣と歴史 昭和57年11月号日本刀剣保存会第530号) 幕田大尉は、昭和21年(1945年)1月15日に石垣島から郷里の山形に復員し、その後は1ヶ月あまり休養しただけで痩せ衰えた身体に鞭打って復員省の掃海艇長として宗谷海峡方面へ出かけ、さらにその年の暮には北海道の魚粉会社へと転じ、陸軍に召集されたシベリアから戻らぬ父に代わって一家の生活を支えていたのだった。 〈写真:担架で運ばれる傷病兵(日本郵船氷川丸HPより)〉
米軍に拘束 暴行受け調書に署名
昭和22年9月に逮捕された彼は、北海道から手錠をかけられたまま刑事に付添われて東京へ連行され、明治ビルにて米人調査官たちの取調べを受けたのだが、調査官たちは彼にとって身に覚えのないことまで並べ立ててきた。 そこで彼が「ノー」と答えてはっきりと否定すると、調査官の一人のダイヤー大尉が、睡眠不足の長旅でくたくたに疲れ切っていた彼に殴る蹴るの暴行を加え、まったくの力ずくで強引に調書を署名させてしまったという。 〈写真:マッカーサー元帥(米国立公文書館所蔵)〉 幕田大尉と海軍兵学校で一期下の井上勝太郎大尉は、慶応大学経済学部の教室で警官から手錠をはめられるやいなや引きずり出されたと書いてある。幕田大尉も仕事先から強引に連行されたようだ。さらに彼の足跡を辿るー。 (エピソード55に続く) *本エピソードは第54話です。
連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。 筆者:大村由紀子 RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。