”剣道の達人”特攻隊長は海戦で大けが 特攻出撃なく郷里に帰ったものの~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#54
火だるまで艦沈没 全治6ヶ月の重傷
<刀菊山人「なまくら剣談(三十)続・幕田大尉と石垣島事件」(刀剣と歴史 昭和57年11月号日本刀剣保存会第530号より> 幕田大尉は軽空母「祥鳳」に乗り組んで、MO(ポート・モレスビー)作戦に参加し、これが珊瑚海にて米空母の「レキシントン」と「ヨークタウン」の攻撃隊に襲われて爆弾13発、魚雷7発を受けて火だるまとなって沈んだ時、左下腿に重傷を負ってそれから半年間ほど病院暮らしを余儀なくされたことがわかる。 これには、「祥鳳」艦長の井沢石之介大佐の現認証明書がついており、それによると、昭和17年5月7日の午前9時25分頃、敵機と交戦中に爆弾の破片を身に受けて負傷したということである。 〈写真:空母「祥鳳」(呉市海事歴史科学館所蔵)〉 「祥鳳」はこの時、零戦6機をあげて敵の第一波をかわしたが、20数機よりなる第二波につかまってしまったわけだが、そのちょうど二十四時間後には、今度は5航戦の「瑞鶴」と「翔鶴」より飛び立った艦攻、艦爆機の同時攻撃を受けて、「レキシントン」と「ヨークタウン」の2艦とも火災を生じ、前者は自国の駆逐艦の魚雷によって処分され、後者はかろうじてハワイに帰投したのだった。 〈写真:病院船時代の氷川丸(日本郵船氷川丸HPより)〉 しかし、この日、「翔鶴」も73機の敵機に攻撃され、飛行甲板に爆弾3発をくらい二百名以上もの死傷者を出してしまい、MO作戦は中止されるにいたった。 幕田大尉が最初に乗り組んだ「剣埼」は、その後は空母に改築されて「祥鳳」と改名されたので、珊瑚海に出撃して負傷するまの8ヶ月間ずっと同じ艦に乗り組んでいたことになるそうだ。 〈写真:炎上する空母レキシントン(米海軍撮影)〉
震洋隊は特攻出撃なく終戦
そして幕田大尉は、石垣島事件の後、震洋特攻隊長のまま終戦を迎えた。 「震洋」とは水上特攻用の体当りモーター・ボートで、重さは1・4トン。速力は23ノット、艇の前部に炸薬がつめこまれてあった。 幕田大尉は大村湾の川棚で訓練を受けた後、この隊長として石垣島へ赴任したわけで、思えばこの一事こそがその後の彼の運命を大きく狂わすことになったのだが、さいわいなことに米軍は石垣島へは上陸しなかったため、震洋隊は特攻出撃をすることなく終戦を迎えた。