男子100mの激戦を制したケンブリッジ飛鳥の強さの秘密と9秒台の可能性
一方、初優勝を飾ったケンブリッジは、「自分の狙い通りのレースになったと思います。緊張は全然なくて、楽しんで走れたのが良かったです」と喜びを噛みしめた。山縣と桐生に挟まれた5レーンのケンブリッジは出遅れたが、序盤はふたりに先行されることを想定してため、焦りはなかったという。 「スタートは速くないですけど、しっかりとトップスピードにつなげられる走りができました。これなら、『追いつける』と思いましたね。序盤はふたりに行かれるのはわかっていたので、最後は真ん中をぶち抜いてやろうと考えていました。ギリギリでしたけど、勝ったかなという感じはありました」 今回の日本選手権は「山縣vs桐生」の対決に注目が集まっていたが、その裏で社会人1年目、23歳のケンブリッジも急成長を遂げていた。 ジャマイカ人の父と日本人の母を持つケンブリッジは、2歳のときにジャマイカから来日。中学から陸上競技を始めて、東京高校3年時のインターハイでは、100mで3位、200mで4位、2走を務めた4×100mリレーで優勝している。同年の日本ジュニアで200mを制すなど、高校時代は「200mの方が得意」だった。 日本大学進学後もどちらかというと200mにウエイトを置いていた。大学2年時には日本選手権の200mで6位に食い込んでいるが、大学3年時から、100mと200mのバランスが変わってきたという。 「2年生まで100mはそれほど意識していなかったんですけど、200mで記録を狙うには100mのトップスピードを上げたいなと思いました。それで大学3年生から意識的に100mをやるようになったんです」 大学3年時の関東インカレでは100mで大学時代のベストとなる10秒21をマークするも、同大会の4×100mリレーで左ハムストリングスを肉離れ。日本インカレでも同じ個所を痛めた。大学4年では桐生を抑えて織田記念の100mを制すと、関東インカレの100mでも優勝。しかし、そのレースで左ハムストリングスを負傷した。 その後は「走らない期間」を設けるなど、リカバリーに重点を置いた。 そして、「今はあの2年間は何だったのかというくらい気にならない」と話すほど状態は良くなったという。左ハムストリングスが完治したのは、ダルビッシュ有ら各界のトップアスリートが汗を流す「ドームアスリートハウス」でパフォーマンスコーチからマン・ツー・マンの指導を受けるようになったことが大きい。