「著者はボケ倒してるのにツッコミなし」直木賞作家・小川哲が『百年の孤独』を語る
現代人にとっての「孤独」とは
長瀬 実は多くの人と同じようにぼくもはじめはこの作品が読めなかったんです。エキゾチシズム的に消費することへの抵抗感もあったし、日本文学を中心に読んできた自分と関係があるようにも思えなかった。ところが2010年代になってアジア出身の作家がマジックリアリズム的に書いた作品が精力的に翻訳されるようになって、見え方が変わったんですね。マジックリアリズムを歴史の暗部を描くための普遍的なツールであって、われわれ日本人にも関係のある書き方だと思えるようになった。 小川 閻連科や莫言のように近代化以前の中国を描こうとする作家もガルシア=マルケスの影響下にあるといっていいでしょうね。 長瀬 亡命イラン人作家のショクーフェ・アーザルの『スモモの木の啓示』などもその系譜にあると思います。それから一族全体の母のような存在であるウルスラ・イグアランが「時間がひと回りして、始めに戻ったような気がするよ」と言いますよね。『百年の孤独』の根幹には、循環する時間、循環する歴史というものもあると思うんです。それもまた現代のわれわれに訴えるところがある理由ではないでしょうか。20世紀に人類は世界中のあちこちで戦争を起こしたわけですが、理性というものによって同じ誤りをしないはずの人類が、相変わらず独裁者を生み続け、ジェノサイドもなくなる気配がありません。この呆れるような状況は『百年の孤独』の読み味に似ていると思うんです。 小川 戦争というものは、国と国の間で見えている世界が決定的に異なってしまった結果として起こるものですよね。 長瀬 そうなんです。そういったズレを描く、見つめるというのは小説家の責務なのかもしれません。 小川 当たり前のことですが、ぼくら21世紀を生きる人間と百年前を生きる人間は認識や価値の基盤が異なります。ですが同時代を生きる人間同士の間にも、百年前の人間との間ほどではないにせよ、ちがいは当然ある。人が何らかの病気にかかって亡くなったことを、科学を信じる人間は病死だと考えますが、呪い殺されたんだと信じて疑わない人もいます。呪いや陰謀というものが当然のように存在する世界を生きている人や集団は、過去にも、この現代にもいます。そして人間はそう簡単に自分の持っている思考の枠組みから逃れられない。だからマジックリアリズムと呼ぶか呼ばないかは別にしても、現代社会を描く上で、そういう書き方は価値を失わないですよね。 長瀬 ぼくのような頭が固い人間は、理不尽さに対してすぐ怒るんですが、小川さんの作品にはそんな思考の柔軟さが表れていると思うんです。荒唐無稽なものや人に対していったん価値判断を留保して観察していますよね。 小川 それは自分と価値観が異なる人を愚かと決めつけてしまうのがもったないと思うからですね。この人の世界というのはどうなっているんだろうと思うんです。そこから物語が立ちあがってくるかもしれない。人間がとんでもなくちがう世界を生きているということがソーシャルメディアによって可視化されました。現代のこの社会を同じ価値観で生きていると思い込んでいる人間同士でも、実は決して交わらない世界を生きているのかもしれません。 長瀬 なるほど。この作品には満たされない愛情、報いのない愛情がたくさん出てきます。みな孤独です。 小川 『百年の孤独』が読み通せれば、社会をともに生きる人との摩擦をマジックリアリズムとして楽しめるかもしれませんよね。わあ、来た来た、これマコンドだ、みたいな(笑)。自由に読んで色々な楽しみ方をしたらいいんじゃないかと思います。 (この対談はTOKYO FM「Street Fiction by SATOSHI OGAWA」で放送された番組の活字バージョンです。オーディオコンテンツブラットフォーム「AuDee」でもお楽しみいただけます) [文]新潮社 1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。 協力:新潮社 新潮社 Book Bang編集部 新潮社
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