「著者はボケ倒してるのにツッコミなし」直木賞作家・小川哲が『百年の孤独』を語る
『百年の孤独』にはツッコミがない
小川 ぼくが最初に読んだのは20代前半だったんですよ。お金がなくて文庫ばっかり買っていて、単行本なんてそう簡単に買えなかった頃のことですから、決死の覚悟で買って必死に読みました。もちろん素晴らしかった。でも、その後の再読では、てきとうなところをパッと開いて、「あ、こんなやついたな」とか「これなんだっけ」とか思いながらパラパラと読んできたんですね。それでいいんじゃないのかなと思うんです。気負って最初から最後まで読まなくてもいいように思う。 長瀬 たしかに著者もそれを織り込んだ上で、作品のあちこちに満遍なく企みを埋め込むように書いていますよね。それをマジックリアリズムと呼んだりするわけですが、といってファンタジー的な世界を志向するのではなく、現実を描き尽くしてやるという気概は絶対に手放さない。 小川 そうですね。たとえば「ロード・オブ・ザ・リング」みたいな典型的なファンタジー作品では、登場人物たちが魔法を使ったりホビット族みたいな人たちが出てきます。つまり「リアリティレベル」を現実からかなり離れたところに設定し、読者もそれを理解した上で読み進める。ところが『百年の孤独』は革命勢力と保守勢力の内戦とかバナナ農園での虐殺事件といった、コロンビアで実際に起きたできごとと同じリアリティレベルに、御伽噺みたいなエピソードが大量に置かれる。4年11カ月と2日間も村に雨が降り続いたり、空から大量の黄色い花が降ってきたり、人間が空に舞い上がって昇天したりね。そして作中人物はそれを不思議なことと感じていない。著者は全力でボケ倒しているのに、作中の人物は「そんなことあるかよ」とツッコミを入れたりしないし、感慨を述べたりしないわけです。そこにツッコミを入れていたら、それはマジックリアリズムではない。 長瀬 小川さんが書かれたポル・ポト政権下のカンボジアを舞台にした『ゲームの王国』でいえば、輪ゴムで村人の死を予見する男だとか、土を食べてその声が聞こえるようになる男の話に通じます。 小川 現代を生きるぼくたちは夜道に灯る電灯を見ても、「あぁ電灯だな」としか思いませんが、科学が発達する以前の人間が現代に転生して電灯を見たら、特殊な生物に見えるかもしれない。あるいは神の特別な力の顕現と見るかもしれないですよね。これをどう活かすかだと思うんです。あるリアリティレベルが設定された物語に、ただ別のレベルの奇想を物語に放り込めばそれでマジックリアリズムだという単純な話ではない。『百年の孤独』は20世紀を生きたコロンビア人であるガルシア=マルケスが祖父の代の19世紀のコロンビアを舞台にして書いているわけですけれど、過去を舞台にした小説を書く際に注意しないといけないのは、書き手が生きる現代の視点でものを見てしまわないということなんです。限界はあるにせよ、いかにして舞台となる時代の価値をインストールして書けるか。これが小説家の腕の見せどころなんです。