アクセルとブレーキの踏みどころーー現代日本はその判断の正念場
東京・池袋で母子2人が死亡した暴走事故以降、高齢者による自動車事故の報道が相次いでいます。そうした中には、高齢の男性運転者が、駐車場内にとまっている別の車に衝突した後もアクセルを踏み続け、他の人に指摘されてもなかなかアクセルから足を離さない衝撃的な映像もありました。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、「アクセルをブレーキに踏み替える本能的な難しさ」を指摘します。それは自動車の運転だけにとどまらず、企業経営や軍事、経済政策、文明のあり方などにも当てはまりそうです。若山氏が独自の「文化力学」的な視点から論じます。
安倍首相のイラン訪問に思う
安倍晋三首相のイラン訪問は、結果はどうあれ、平和のために努力したという事実を評価したい。とはいえ、トランプ大統領の手先という印象を与えたとすればあまり喜ばしくはない。 日本はアメリカとどこまで行動をともにすべきなのか。特に軍事的な行動については重大な問題である。まだハッキリとはしていないが、今の政府はその判断の岐路に立たされているのではないだろうか。周辺事態に対しては日米同盟を基軸に動くとしても、中東のように近隣とはいえない地域に関しては、どこかでブレーキを踏む必要があるように思える。 安倍政権はこれまで、力強くアクセルを踏み進んできたが、踏みっぱなしでは良い結果を生まないであろう。
アクセルをブレーキに踏み替える本能的な難しさ
アクセルとブレーキといえば、最近多い高齢者の運転事故が思い浮かぶ。 ブレーキを踏むべきところでアクセルを踏み込んでしまう。そして自分が間違えたとはいわず「ブレーキを踏んだら加速した」という。これまでも、日本とアメリカで、それが車の欠陥であるかのように報道され、自動車メーカーは大変苦労したことがある。 しかしこれは本当に高齢者だけの問題であろうか。そこには人間というものが持つ本能的な問題が隠れているのかもしれない。 高速道路を長く走る場合など、だいたいはアクセルの上に足を置いて、踏めば加速、離せばエンジンブレーキが利いて減速、という運転をするものだ。いざという時にはブレーキを踏まなくてはと思いつつも、パニック時にはアドレナリンが放出され、ついアクセルを踏み込んでしまう。そしてその結果に対しては自分の正当性を主張する。それは弱肉強食的生存競争を勝ち抜いてきた動物としての本能かもしれない。突発的事態に臨んで動物は、まず立ちすくみ、そして脱兎のごとく走り出すものだ。「闘争・逃走反応」と呼ばれる。