ドイツW杯のブラジル戦に先発した巻誠一郎「もしかして」と思ったが、本気になった相手には「何もできなかった」
「前線でなかなか動けないなか、いきなりボールが来ても反応できない。そこでボールを受けても、すぐに(相手に)囲まれてロストして、また攻められる、という悪循環でした。そこから打開して、修正するだけのエネルギーが、僕にもチームにもなかった。守備陣が体を張って頑張ってくれていたんですが、前線の僕は何もできなかった。みんなに申し訳ない気持ちと無力感を味わいました」 後半15分、巻は高原直泰と交代し、ベンチに下がった。 巻がベンチに下がってからも、ピッチではブラジルが圧倒的な力を見せつけていた。"サッカー王国"のすごさを、体にも、目にも焼きつけられた。 日本はロナウドにトドメとなる4点目を決められ、1-4と完敗を喫した。日本は「史上最強」と称されながら、1勝もできずにグループリーグ敗退。W杯の舞台から去ることになった。 「3試合を通して、チームとしても、個の部分でも、相手に勝てていなかったので、『(日本は)まだまだだな』って思いました。ただ、まったく通用しないということではなく、オーストラリア戦も、クロアチア戦も、いい時間を作れていたんです。その出力を継続していければ、もう少しやれたのかなと思うので、そこはもったいなかったです。 あと、やっぱり最後までチームが一体感を築けなかったのも大きかったと思います。W杯の舞台だから、そうなってしまったのか......。(所属するジェフでは)オシムさんのもとで(チームが)ひとつになってプレーしていた僕には、正直理解できませんでした」 チームとして結果は出なかったが、巻にとっては初のW杯。60分のプレー時間ながら、得るものがあったという。 「やれそうな自分と、まったく何もやれない自分と、半々でしたね。ただ、僕はあらめて『人に活かされるタイプの選手なんだ』というのを実感することができました。そこから今後、どれだけ自分ができることを増やしていけるのか。それが課題でしたし、その努力をしていかないといけない、と思えたことは大きな収穫でした」 ドイツから帰国し、日常に戻った時、巻は「オシムさんだったら、W杯をどう戦ったのだろう」「日本のサッカーをどうするんだろう」と考えていた。 その「もしもオシムなら......」という巻の想像は、まもなくして現実となった。2006年7月、オシムの日本代表監督就任が発表された。 (文中敬称略/つづく)◆巻誠一郎にとってのサプライズ選出「選ばれないほうがよかった」>> 巻誠一郎(まき・せいいちろう)1980年8月7日生まれ。熊本県出身。大津高、駒澤大を経て、2003年にジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)入り。イビチャ・オシム監督のもと、着実に力をつけてプロ3年目にはレギュラーの座をつかむ。そして2006年、ドイツW杯の日本代表メンバーに選出される。その後、ロシアのアムカル・ペルミをはじめ、東京ヴェルディ、地元のロアッソ熊本でプレー。2018年に現役を引退した。現在はNPO法人『ユアアクション』の理事長として、復興支援活動に奔走している。
佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun