「覚えておいて欲しいのだが……」古代ローマの哲学者が教える「宴会ルール」が現代でも参考になる
「水しか飲まない人、あるいは何かしら禁欲的な修行を行っている人がいるとして、誰彼となく相手を捕まえては『私は水しか飲まないんです』と言うとしたら――おいおい、水を飲んで何かいいことがあるなら飲めば良いのだ。そうでなければやっていることはただ滑稽なだけだ」 これには笑ってしまいますね。エピクテトスは明らかに気がついていたのです――飲まないことを鼻にかけるのは、酔っ払ってくだを巻くのと変わらないくらいたちが悪いという不変の真理に。 というわけで、水を飲むにしても自制心の鍛錬をするにしても、そのことを周囲にアピールしないようにしましょう。 ● 大切なのはハメを外し過ぎず 「しらふ」でいる勇気を持つこと ストア派は飲酒そのものには反対ではなく、よくワインが豊富に供される宴会を主催したり参加したりしました。古代ローマ人は日常的にワインを飲んでおり、セネカは高級ワインを大いに楽しみ、自分でもワイン用のブドウ園をいくつか所有していたことで知られています。 社会的存在であるからには、他の人が飲んでいても自分はその場から姿を消さないのが重要だとストア派は信じていました。飲まなくても祭りやお祝い事には参加し、楽しむのです――ただ、自分をコントロールする力は失ってはいけません。パーティーには加わりましょう、でも酔ってふらふらになってはいけません!セネカは次のように助言しました。 「酔っ払って吐いている集団の中で、自分が酒を飲まずしらふでいるのはかなりの勇気があることを示している。集団に屈して同じようにするのを拒否し、違うやり方をすることで、自分が目立つこともなく、集団の一員になることもないようにするのは、さらなる自制心があることを示している。羽目を外さずに休暇を過ごしてもいいのだ」
● 必ずしも「飲酒=悪」ではない たまの憂さ晴らしは仕方がない こうした「概ねしらふでいる」という原則には例外が設けられていて、それは理にかなっていると私は思います。 避けられない状況になったら自制心をいったん保留できるようになっているのです。ストア派はたまには――つまりめったにはないという意味ですが――酔いで解き放たれるものがあるのを分かっていたのです。 スランプに陥って頭の中が悶々としているときのことを考えてみてください。ひょっとすると恋人に振られたか、職を失ったのかもしれません。 いつでも善意の友達というのはいるもので、あなたをジャージの上下から何かおしゃれな服に着替えさせ、「憂さ晴らしする」ために飲みに連れ出してくれます。彼らは身体に喝を入れるための1杯があなたに必要だと言うでしょう。ときには実際に、街に一晩繰り出すことがギアチェンジに必要な薬になることもあります。 これはストア派の助言からそれほど離れていません。 セネカは、ときにはこのように考えました。 「べろんべろんに酔うほどではなく、自分をちょっとワインに浸すだけにして、ほろ酔い程度までは飲んだ方がよい。なぜなら、ワインは悩みを洗い流し心の奥底から取り除き、病気に対して効き目があるように、悲しみを癒してもくれるからだ。ワインを発明した神はリーベルと呼ばれるが、それは彼が我々に舌を自由に使うことを認めているからではなく、心配事に囚われている心を解放して自由にし、生気を与え、挑もうとすることすべてにおいてさらなる勇気を与えてくれるからなのだ。」 これではストア派がどっちつかずの態度を取っているように聞こえるかもしれませんが、要はすべて彼らの哲学に沿っているのです。 節度を保ち、自制心を維持し、規律を守り、そして、ごくまれにですが、必要があるのなら羽目を外せばいいのです。 ストア派は自分でコントロールして物質を利用するのであって、物質にコントロールされてはいないのです。
ブリジッド・ディレイニー/鶴見紀子