「室井慎次」文机の上にある「全集 黒澤明」と「踊る大捜査線」のルーツ
引退した室井の前に現れる日向真奈美の娘
「室井慎次 敗れざる者」(本広克行監督、君塚良一脚本、24年)は、劇場版第4作から12年を経て公開された「踊る大捜査線」の最新のスピンオフ映画であり、間もなく公開される「室井慎次 生き続ける者」との2部作構成になっている。「敗れざる者」では、警察の職を自ら辞した室井慎次(柳葉敏郎)が、故郷の秋田に帰っている。室井は里親となった2人の子ども(斎藤潤、前山くうが/こうが)とともに穏やかに暮らしていたが、自宅のすぐ近くで死体が発見され、いや応なく事件に巻き込まれていくことになる。 同時に、劇場版第1作と第3作に登場したサイコパスの殺人犯・日向真奈美(小泉今日子)の娘・日向杏(福本莉子)が室井のもとを訪れ、彼の平穏だった日常をかき乱す。日向真奈美の造形は、アカデミー賞主要5部門を独占した「羊たちの沈黙」(ジョナサン・デミ監督、91年)に登場する猟奇殺人犯ハンニバル・レクター(アンソニー・ホプキンス)に由来する。本作ではその彼女がひそかに獄中出産しており、娘がいたという設定が採用されている。 表向きは素直ないい子を演じている杏だが、里子たちにウソの情報を吹き込んで室井への不信感をあおったり、室井の不在時に彼の自宅を探り回ったりと、不穏な動きを見せる。その際、室井の文机の上に「全集 黒澤明」が置かれているのがチラリと映り込む。シリーズのこれまでの流れを考えれば、最新作に黒澤明への目配せが仕込まれていることは特段不思議ではない。
「史上最高の娯楽映画」系譜を継ぐのか
「目配せ」と言っても「引用」と言っても「オマージュ」と言っても「パロディー」と言っても、あるいはそれ以外の言い方をしてもいいが(この文脈では特に区別する必要がない)、それが作中で有効に機能しているかどうか(作品内容とどのように関わるのか)によって、おのずと質的な違いが生じる。これまでのシリーズ作品では、(それがうまくいっているかどうかははともかくとして)言及している先行作品との間にストーリーやモチーフ上の強いつながりがあったが、「敗れざる者」を見た限りでは、特に黒澤明の名前を持ち出す必然性には思い至らなかった。 「引用」や「オマージュ」にはさまざまな効果がある。たとえば、(ときにユーモアを交えつつ)先行する偉大な作品に敬意を表し、その衣鉢を継ぐ覚悟を示すことができる。「踊る大捜査線」シリーズが実践してきた数々の引用の真骨頂もまたそこにある。史上最高の娯楽映画作家たる黒澤明の系譜に連なるべく、エンタメ路線のど真ん中を歩み続け、(ときに社会性や時事性を塗しながら)徹底しておもしろさを追求してきたのが「踊る大捜査線」シリーズである。「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」が依然として日本の実写映画における歴代興行収入1位(173.5億円)の座を守り続けているのは、その結果にほかならない。 「敗れざる者」がまいた黒澤明という伏線の種を、「生き続ける者」はいかにして回収するのか(あるいはしないのか)。「踊る大捜査線」シリーズの矜持(きょうじ)の行く末を、心して見届けたい。
映画研究者・批評家 伊藤弘了