ホンダ初代シビック誕生までのサイドBストーリー【昔のホンダは自動車業界のYouTuberだった!?】
ホンダを救った救世主「シビック」が、世界的な大成功を導く
いくら2輪が儲かっていたとはいえ、そんな立て続けのやらかしで4輪からの撤退さえ囁かれる中で、1972年に登場してホンダを救ったのが初代シビックだった。 じつはシビックの企画は、1300の開発開始と同時期に提案されていたという。 企画者は当時4輪車の開発責任者を務め、1964年からの第一期ホンダF1チームの監督でもあった中村良夫氏。欧州を転戦した彼は、英国のミニやフランスのルノー4などの合理的なFF2BOX車の成功を肌で知り、その路線の大衆小型車を企画した。 ところが、本田社長は立派なセダンやクーペが人気だった日本で売れる、派手なメカニズムの高性能車を指向して1300を開発させ、大コケしてしまったのだ。 空冷に最初から懐疑的だったホンダのエンジニアたちは、創業以来の本田氏の片腕だった藤沢武夫副社長に泣きつき、副社長が「あなたは社長なのか、技術者なのか」と迫ることで、本田氏はようやく部下に開発現場を任せる決心をする。 そうして、世界市場を意識したFF2BOXのシビックは生まれ、さらに本田社長も納得させる独創的な排ガス対策技術、CVCCの開発成功で、同車は世界へと飛躍することになる。 日本では、2BOXの先輩であるN360を卒業した若者たちが知的で新しい乗り物として選び、チャレンジャーを歓迎する北米では、ビッグ3が実現不可能と主張していた厳しい排ガス規制のマスキー法を世界で初めて、しかも独創的な方法でクリアした姿勢に喝采が送られて、大成功となった。 凄いことにこだわったN360と1300の成功と失敗があってこそ、世のためになる凄いことで勝負したシビックは、ホンダの出世作となったのだろう。 シビックの成功を見届けて、本田宗一郎氏は盟友の藤沢武夫氏とともに1973年に経営から身を引いた。本田氏のチャレンジングな姿勢を正しく受け継いだ部下たちの手で、その後のホンダは世界のブランドへと成長していったのだ。 ◆1972年にデビューした初代シビック。1974年にはスポーツグレード「RS」も投入されるなど、現在のホンダ車のイメージを確立したパイオニアだ。 ◆初代シビックに搭載されたホンダ自慢の水冷エンジンは、リーンバーン技術を筆頭に絶え間ぬ改良を加えることで厳しい排ガス規制をいち早くクリア。「エンジンのホンダ」というイメージを確立する原動力になっている。
────────── ●文:横田晃(月刊自家用車編集部) ※掲載内容は公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。
月刊自家用車編集部