松下幸之助を尊敬した稲盛和夫が、ホテルにカンヅメになって初めて練り上げた「経営方針」の中身とは?
20代で京セラを創業、50代で第二電電企画(現KDDI)を設立して通信自由化へ挑戦し、80歳を目前に日本航空の再生に挑んだ稲盛和夫氏。いくつもの企業を劇的に成長・変革し続けてきたイメージのある稲盛氏だが、京セラで長らく稲盛氏のスタッフを務めた鹿児島大学稲盛アカデミー特任教授の粕谷昌志氏は、「大変革」を必要としないことこそが稲盛経営の真髄だという。本連載では粕谷氏が、京セラの転機となる数々のエピソードとともに稲盛流の「経営」と「変革」について解説する。 第4回は、稲盛和夫の自著の書名、「盛和塾」のモットーともなった「心を高める、経営を伸ばす」経営のルーツを、貴重な自筆資料とともにたどる。 ■ 経営における「心」の重要性 稲盛和夫の経営思想の最大特徴は、人の心を重視することにある。 元来、会社業績と経営者の心のありさまとの関連を真正面から論じる者は少なかったが、稲盛はその両者が不即不離の関係だと考えた。経営を伸ばすには、経営者が心を高めなければならないことを信じ、自ら実践した。また、「心を高める、経営を伸ばす」を最初の著書のタイトルとし、主宰した経営塾「盛和塾」のモットーにもしたように、広く社会に説いた。 京セラの成長発展期に、経営における精神の重要性に気付き、そのことをKDDIや日本航空でも貫き、業種業容を超えて経営する企業を繁栄へと導き続けたこと、それはまさに変革であろう。そんな稲盛経営の原点をひもといていきたい。
■ 初めての経営方針発表会を開催 1967年1月16日、前年5月に社長に就任していた稲盛は、満を持して京都セラミック(現京セラ)第1回経営方針発表会に臨んだ。 実質的には1959年の創業以来、経営トップの役割を担ってきたが、いまだ20歳代であっただけに、創業時は取締役、その後も長く専務取締役に留まっていた。しかし1966年、34歳となった稲盛は、さらなる飛躍期を迎えていた会社の現状と将来を鑑みるに、社長に就任することを自ら申し入れた。 その翌年、まさに経営の第一線に立ち、自らの経営方針を初めて全社に示したのが、第1回経営方針発表会であった。 この経営方針発表会を新年早々に行うことは、恐らく松下電器(現パナソニック)に倣ったものであろう。稲盛は松下幸之助氏を尊敬し、その経営哲学を学んでいた。著書『道をひらく』(PHP研究所)を愛読し、雑誌『PHP』を購読し、社内で輪読も行っていた。 当時、松下電器は京セラ最大の顧客であり、稲盛は商談のため頻繁に松下電器の事業所に足を運び、その経営の取り組みを見聞していた。 松下電器では、戦時下の1940年を第1回として、以後毎年1月10日に恒例行事として経営方針発表会が開催され、幸之助氏が新年度の具体的な経営方針を示していた。また、経営方針発表会は社内のみならず、取引業者にも開放されていた。 稲盛もそのような場で経営方針発表の重要性を理解し、自分が社長に就任し初めて迎える新年に、満を持して開催したのであろう。 稲盛は経営の第一線を退くまで、この経営方針発表会をことのほか大切にし、社長時代は年末にホテルに一人カンヅメになり、経営方針を練り上げた。 そして年明け第2週くらいに、京セラでは毎年、経営方針発表会が開催され、稲盛の乾坤一擲(けんこんいってき)の方針が発表される。 まずは幹部が直接聞き、一般社員はビデオや社内報を通じ内容を理解する。こうして京セラでは、新年度を前に、全員が経営方針で示された方向にベクトルを合わせ、全社一丸となって経営目標達成に向けてまい進していく体制が出来上がる。 この一連の流れは稲盛が経営の第一線を去った後も変わらず、今も京セラの経営トップにとり、また幹部、社員にとっても、経営方針発表会は最も重要な経営イベントであり続けている。 ■ 中小企業から中堅企業への飛躍を促す 稲盛が、第1回経営方針発表会で示した最大の方針は、「中小企業から中堅企業への脱皮」であった。 当時京セラは、売上6億4300万円、経常利益1億8900万円、従業員341名、資本金4000万円に至るまで発展を遂げていた。徒手空拳の創業から8年が経過し、売上は25倍、従業員数は12倍に拡大し、経常利益率は29.4%を誇っていた。 しかし稲盛から見れば、それは中小企業として最大の伸び代を使い切った姿であった。稲盛は問うた。「このまま中小企業に安住するのか、それともさらに上を目指していくのか」。 稲盛は躊躇(ちゅうちょ)することなく、経営理念でうたった「全従業員の物心両面の幸福」を揺るぎないものとするために、さらなる成長発展、つまり中小企業から中堅企業への飛躍を目指すことになるが、その前提として稲盛には取り組むべき課題があった。 稲盛ライブラリー3階に、第1回の経営方針発表に向けた稲盛の草稿が展示されている。冒頭で、稲盛は次のように述べる。 「我々がこれから歩む中堅企業への道は、今まで我々が取ってきたやり方とは次元を異にすると考えます。つまり、我々が今まで住んでいた世界と、中堅企業が住む世界とでは、大きく違うのではないかと考えます」 しかし、稲盛は言う。 「ただし、ひとつだけ変わらないものがあります。それは京セラ精神です。これは中堅企業になってもまったく変わりません。むしろ私は京セラ精神の復興運動を起こし、末端の社員まで徹底を図ろうと思っています。 現在、総務を中心に条文化に努めています。私も正月にまとめてみましたので、早急に皆さんに配布して、全社員に周知徹底していきたいと思っています」 稲盛が、さらなる成長発展に向けた挑戦の前提として訴えたものが、創業の精神の復活であった。また、それを全社共通の揺るぎなきものとするために、成文化を唱えているのである。実際に、稲盛は経営方針草稿とは別に、「京セラフィロソフィ」と後に呼ばれる企業哲学についても、初期原稿をまとめている。 「自ら進んで苦難に飛び込む勇気を持たねばならぬ」「人一倍苦労し、人並みのことができると思え」「仕事の結果=意志×能力×考え方」「謙虚を身上とすべし」など、後年われわれが稲盛経営哲学をひもとく時に目にする言葉が並ぶ。 この草稿も稲盛ライブラリー3階に展示されているが、表現こそ違え、意味するところは今に伝わる稲盛の経営思想と何ら変わることはない。当時35歳を迎えていた稲盛は、京セラ創業後わずか8年で、すでに自らの経営哲学の骨格を構築し、その有効性を確信していたのである。