「涙は出なかったです」箱根駅伝で“伝説の17人抜き”…東海大・村澤明伸が明かす「12年前の悪夢」 大エース擁した名門が“40年ぶり”予選落ちのナゼ
大学3年時、日本代表としてアジア選手権に出場
大学3年になると、より上を目指したいという思いが加速する。春先のレースで1万mの自己ベストを28分00秒78に更新すると、6月の日本選手権では並みいる実業団選手を相手に2位と健闘。アジア選手権の日本代表に選ばれると、ここでも積極的な走りで3位に入った。 くしくもこの年、高校の恩師である両角速が佐久長聖高を辞めて、東海大の駅伝監督に就任していた。村澤の気持ちの中では、こんな変化があったという。 「大学に入ってから、新居(利広)監督にご指導いただき、そこでは自立心を養っていただきました。また3年目に両角先生に代わって、高校の時のようにしっかりと目標設定をしていただいた。両方が掛け合わさったのが3年目以降だったかなと思います」 9月にはイタリアの大会で5000mの自己ベスト(13分34秒85)をマーク。翌年のロンドンオリンピック出場が明確な目標として視野に入ってきていた。周りから見れば順調そのものだったが、村澤はこの頃からちょっとした違和感を覚えるようになっていた。
村澤が覚え始めた「違和感の正体」
「日本選手権を経てからですかね。今までみたいにどこまで行けるんだろうっていうよりも、明確な目標があって、そこに自分を合わせていくという風に変わった気がします。それって選手としては当たり前のことなのかもしれないですけど、それまで自分の感覚メインでやってきたのが、少しずつタイムであったり、距離であったり、そういったものに置き換えられていった。この練習をしたいではなく、しなければいけないっていう風に、もしかしたら気持ちの面で変わっていたのかもしれないです」 成長曲線は変わらず上を向いていたが、気持ちの面ではプレッシャーを感じ始めていた。4年生の春にはカージナル招待(米)で1万mの自己ベストを27分50秒59(当時の日本人学生歴代4位)にまで伸ばしたが、五輪参加標準記録Aの27分45秒00には届かず。あと5秒タイムを縮めるために何をすべきか、そう考えざるを得なくなっていたのだ。 五輪の選考がかかった日本選手権は10位と奮わず。オリンピック出場は次の機会に持ち越された。それでも、村澤のスケジュールは過密だった。 最上級生となり、監督から主将に任命されたが、チームの練習にはほとんど帯同できず、6月の全日本大学駅伝関東予選会も欠場した。村澤はその頃、スイスを中心にヨーロッパのレースを転戦中で、予選通過の吉報も電話で聞くしかなかった。 日本に帰り、短い休暇を取ると、7月の終わりから今度は実業団の合宿に参加。そして8月に入ってようやく、東海大が夏合宿を行う紋別(北海道)でチームに合流した。 悲劇が起きたのは、その合宿中のことだった。 <次回へつづく>
(「箱根駅伝PRESS」小堀隆司 = 文)
【関連記事】
- 【つづき/#2を読む】「結論が出たのは、前日の夜でした」箱根駅伝2区で“伝説の17人抜き”…東海大・村澤明伸が振り返る、12年前「走れなかった最後の箱根路」秘話
- 【つづき/#3を読む】「恩返しが何もできていないので」箱根駅伝で“伝説の17人抜き→40年ぶり予選落ち”の波乱万丈…東海大・村澤明伸(33歳)が今も現役を続けるワケ
- 【貴重写真】あの2011年箱根駅伝2区「伝説の17人抜き」が写真で甦る…「全然変わってない!」33歳になった“ごぼう抜き男”村澤明伸の現在も写真で見る(30枚超)
- 【あわせて読む】あの「黄金世代」から5年…東海大まさかの落選 「留学生級」スーパーエース抜きの東農大は1秒差で涙…箱根駅伝“大波乱の予選会”はなぜ起きた?
- 【こちらも読む】箱根駅伝2区で“17人抜き”した男・村澤明伸30歳の今「(大迫傑と)どんどん差は開いていく」「医師の指示で、一度完全に走るのをやめた」