「いちばん辛い言葉は『いい旦那さんだったのにね』でした」自死遺族・乳がんサバイバーの彼女が立ち直れた「きっかけ」
暖かい家庭を夢見て結婚。しかしご主人がメンタルの調子を崩し暗雲が立ち込める
高校卒業と同時に就職し、自分のお給料で車も買った三井さん。いくつか職を移りながら、26歳のときに6年交際したご主人と結婚します。このころ盲腸での入院をきっかけに医療の仕事に興味を持ち、三井さんは医療事務の仕事をスタート。27歳で男児、31歳で女児を出産しますが、第一子出産後の29歳のときにご主人のメンタルの状態が悪化、入退院を繰り返すようになりました。 「長男が1歳になる前から何かおかしいなと感じていましたが、1歳になるころ、買い物から帰ってきたら夫が布団をかぶって震えていて。どうしたの?と聞くと、もう仕事はできない、新聞で読んだけれど俺はうつ病なんじゃないかと思うと、絞り出すように言うんです」 思えば交際中の22歳ごろにも似たようなことがありました。土木関係の仕事に就いていたご主人が突如会社に行けなくなり、総合病院を受診したものの、何でもないよと言われ、しばらく家でぶらぶらしてる間に次の仕事を見つけてきたそう。当時はうつ病という認識が社会にも薄く、深刻に考えませんでしたが、いま思えば発症していたのでしょうねと振り返ります。 そこからは波乱万丈でした。3か月もの長期入院が年に3回あり、3年ほどは非常に厳しい病状が続きました。やがて一度は寛解(治癒)となりひと安心、家も建てたい、子どもももう一人ほしいよねと夫婦で話し合い、長女を授かります。ですが、出産からわずか1か月で一気に鬱状態に陥り、希死念慮(自死したい願望)も強く出てしまったため、再び入院に。 「生後1か月の娘と4歳の息子に加えて、夫の世話もして仕事を続ける、いわばマイナスワンオペの暮らしが始まりました。このころ夫には双極性障害の診断が下り、ちょっと仕事をしては長期休んで、入院もしてという状態が続きました。結局のところ発症から5年は荒れに荒れて、入院中の病棟で躁転(躁鬱の躁状態が始まり、過活動になること)して暴力沙汰を起こしてしまったりと、気苦労も絶えませんでした」 私にできることは働きに出ることと、子どもを文字通り食べさせることだけでした、と三井さん。 「下の子が生後6か月から、朝いちばんから夜最後まで保育園に預かってもらって。子どもは本当に保育園に育てていただきました。そして、私もやはり母のように、朝夜だけは手作りの料理を食べさせることに全力を注ぎました。一緒にいてあげられる時間があまりに短いから、そこでしか母としての愛情を表現できなかったんですね。料理・洗濯・家事は我ながら完璧にこなしてきたと思います。それも母がしてくれたことそのものでした。そのおかげでしょうか、子どもは2人とも、朝眠くてもがんばって食べて学校に行く習慣がつきました」