「いちばん辛い言葉は『いい旦那さんだったのにね』でした」自死遺族・乳がんサバイバーの彼女が立ち直れた「きっかけ」
自死遺族の心に残される「私のせいかも」という呪い
さらに、三井さんは「自分のせいで祖父が世を去ったのかも」という自責の念に苦しめられます。 「自死する何日か前、夕飯を囲んでいるとき、父母は祖父の行動に予兆を感じたそうです。みんなでどうしたのと心配し、精神科に連れていき来週には入院させるという話になっていたと聞きました。私はその後もしばらくの間はまた家族の誰かが死んでしまうかもしれないと不安にかられ、現場を何度も見に行き、生存確認を繰り返しました。人は自ら命を絶つことができるんだな、病気や事故で死んでいくだけでなく、自らの意思で死んでしまうことがあるんだと心に刻まれてしまったのです。母はよく泣く人でしたが、あまりにも泣くので母も自死を選ぶのではと不安になってしまって。この経験から、私は子どもの前で泣かない母親になりました」 いっぽうで、この体験を持ちながら「道を踏み外さなかった」背景も、同様に家族との関係性の中にありました。 「私が生まれ育った飛騨高山では小学校からスキーの授業があります。みんな新しいスキー板を買ってもらうのですが、我が家は買えず、お古のぼろぼろの板を持っていきました。周囲にはさんざんバカにされますが、私は泣かず、言い返しもせず、ただ聞き流していました。今でも私は辛いことも悔しいことも、その場では言い返さず微笑んで流しますが、いっぽうで当時からその直後にすぐ誰かに吐き出していました。これができたから、私は自死せず生きていけたのだと思います。帰宅してすぐ母に、誰にこう言われた、ショックだと訴えると、母が学校に電話して担任に伝える。すると、学校の担任がそんなこと言っちゃだめだよと注意します。こうして、幼いころから対処法を見につけられたのだと思います」 三井さんが成人する直前までは一家が借金返済に追われており、三井さんも弟さんも大学に進学したいとは口に出せず自分で稼ぐしかない状態でした。父親は建築会社に再就職し、借金返済のため365日、朝から深夜まで掛け持ちで働き、祖母はホテルの皿洗い、母はお菓子の製造工場。この家の中で自分は何ができるのか、2つ下の弟の面倒を見なくちゃ、働いて疲れている母親の家事を手伝わなきゃ、という気持ちにならざるを得なかったと言います。 「中学のとき、母にとにかく高校だけは出すと言われました。同時に、子どもが稼いだお金は子どもが使いなさいとも。なので、高校3年間はウェイトレス、お弁当屋など、ずっとアルバイトをして、部活の吹奏楽の楽器やエレクトーンを自分で買いました。父母の誕生日には小さなプレゼントを用意しました。楽しみのまったくない暮らしにならずに済んだのは、お金がない中でも消費を完全な悪とせず、『子どもは子ども』と切り分けてもらえたからだと感謝しています」 暮らしぶりこそ大変でしたが、父母を嫌いにならなかったのはそこに愛情があったからだと振り返ります。 「母はいまでも貧乏ながら、誰かに何かしてあげたい気持ちが強い人。私もそれを受け継いでいるのかもしれません。自分のことより、人のことに使うお金が多いんです」