壮大な平城京造営の裏側で古墳が破壊された? 元明天皇が命じた慰霊のための対処法とは
奈良県は世界遺産が多く、法隆寺の登録は1993年です。その後、1998年に奈良市内の8か所が新たに登録されてから25年が過ぎました。天平文化は実に鮮やかで華々しいものですが、奈良時代そのものはそれほど落ち着いた時代でもなかったようですし、古墳の破壊や移築もすでにあったようです。 ■平城京造営のために古墳が破壊された? 奈良市内といえば約1300年前は平城京という大和の国の首都でした。710年に都となって784年に長岡京へ遷都されるまでの、国造りの重要な時代の奈良の都です。 「あをによし 奈良の都は咲く花の 匂うがごとく今さかりなり」と小野老(おののおゆ)が詠んだのは、実は九州の太宰府だったのですが、鮮やかに彩られた華やかな奈良の都を懐かしんで、太宰府の面々に平城京の様子を伝えたのだといわれています。それはオーバーな表現でもなく、本当にきらびやかな都だったでしょう。 しかしながら美しい平城京を造営するときに少なからず、すでにあった古墳などの遺跡が破壊されているようなのです。 藤原京はわずか16年あまりしか使われませんでした。今日の研究では、平城京や平安京をしのぐほどの広大な都市計画だったようですが、都市の中心部である大極殿周辺の土地が低く、水はけに大問題があって住みにくかったのだろうと考えられています。またその不都合は権力を握りつつあった藤原不比等にとっては好都合で、旧都明日香のすぐそばにある新益京(あらましのみやこ)としての藤原京から離れて新時代の到来を知らしめるには、南に開けて三山鎮を成す奈良盆地北端の地が最適だったのだろうと考えられています。 さて、平城京への遷都を詔(みことのり)したのは元明女帝ですが、その中に「京域予定地には古(いにしえ)の高貴な人の墓がある。これを発見したら丁寧に処遇して差し上げよ」という一文があります。 実は近年の調査で、平城京域には複数の古墳があったと考えられています。もちろんそのまま残されているものもありますが、最北部の平城宮からすぐ北側に佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群がひしめき合っている様子からも、京域の広い範囲に古墳が造営されていたと考えるのが自然かもしれません。 古代に古墳を破壊した例はほかにもあります。例えば大阪府の上町台地上には荒墓(あらはか)と呼ばれた場所があったようで、そこに重なって四天王寺や大坂城が造営されています。そもそも「石山本願寺」などと呼ばれたりしたのは、大量の葺石や基礎石、石棺・石室材がゴロゴロ出てくるからではなかったかとも考えられていますし、四天王寺には石棺の古材が再利用されています。 強烈な大断層の圧力で生まれる緑色の美しい結晶片岩は磚積み(せんづみ)古墳などにも使われますが、古墳が地震などで破壊されると、近所の民家で石垣材に再利用されているケースが現在も見られます。中世戦国時代の砦や城の石材には、道祖神や石碑、中には裏込め石に宝塔材がリユースされていることもあります。 狭い日本列島の一等地は長い歴史の中で重層化していきます。こういう遺跡を複合遺跡といいますが、古い時代の古墳を更地にしたり、遺跡材を再利用したりすることは枚挙に暇がありません。 しかしながら現代人に比べて近世以前のご先祖様たちは怨霊や祟りを私たちの想像以上に恐れていたはずなのですが、どういう儀式や被葬者への慰撫をしていたのでしょうね? 平城京造営の時の元明天皇は、「貴人の墓を発見したら埋め戻して酒をふるまって儀式をせよ」と言っているようですが、現代の調査では相当な数の儀式をしなければならなかったのではないだろうかと考えられています。きっと怨霊話や祟り騒ぎも多かったのではないでしょうか? そういえば奈良時代は美しい都だったかもしれませんが、謀反や疫病、陰謀や政変、遷都や内戦が多くみられますねぇ……。
柏木 宏之