宮崎勤の「被害者」からメッセージ 1989年のあの年に「私の人生も変わった」と伝えたい 北原みのり
作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は1989年に起こった2つの事件と女性が安心して生きられる社会について。 【写真】宮崎勤元死刑囚が今田勇子の名で朝日新聞東京本社に送った「告白文」 * * * 「幼い頃に宮崎勤の被害を受けたことがあります」 そのメッセージを受けたとき、時間が静かに止まるのを感じた。少し前のこと、仕事で知り合った女性からのものだった。 宮崎勤元死刑囚(2008年に執行)が逮捕されて、今年で35年になる。もう35年になるのか……と、当時を振り返る。被害を受けた女性の35年を思うと、なんと返してよいのか言葉が出ない。 あのとき、4人の幼い女の子が誘拐され、殺害された。最初の女の子が行方不明になったのは1988年の夏、それから約1年、男は逮捕されることなく加害を重ねた。 89年2月に、「今田勇子」の名前で朝日新聞社に犯行声明が届き、殺された女の子の写真も同封されていた。私は高校3年生で大学入試を終えたばかりの頃だったが、犯行声明が大々的に報じられた新聞を読む母親の真剣な横顔を覚えている。母は後々まで、殺された女の子のおなかにたこ焼きが残っていたことを、暗い口調で話すことが時々あった。 男が逮捕されたのは、最初の声明が出されてから半年後の89年7月23日。東京都八王子市で、幼い姉妹が宮崎から声をかけられた。機転を利かせた姉が父親を呼びに行き、山林で妹を全裸にして写真を撮っていた宮崎を父親が捕まえ、警察に突き出したのだ。 そうだった。宮崎の被害者は「殺された4人の女の子」だと私は思っていた。なぜ、そんなふうに思っていたのか……と自分に呆れるような思いになる。裁判の記録によれば、宮崎は84年から幼女を誘い、全裸にし写真を撮るなどの犯行を重ねていたというのに。殺された4人の女の子たちの背後には、きっと、無数の女の子が被害にあっていたはずなのに。 私に話をしてくれた女性は、生き抜くことができた。 彼女は一人で入った女子トイレで被害にあった。