宮崎勤の「被害者」からメッセージ 1989年のあの年に「私の人生も変わった」と伝えたい 北原みのり
幸い連れ去られることはなく、母親が警察に届けを出したが、男は捕まえられなかった。後に宮崎が逮捕されたときに、自分の写真を所有していたことを警察に伝えられたという。 あの時代、被害にあった女の子たちが今、40代になっている。 そして今も、もしかしたら自分の娘たちが同じような目にあうのではないかと恐怖している。娘がいなかったとしても、この類いの事件が今も起き続けている事実に、苦しんでいる。 宮崎が逮捕されてから35年経った。宮崎勤の名前を知らない世代も増えてきている。それでも、小さな女の子に向ける暴力性、残酷な欲望は、今も変わらず存在する。いやむしろ、もしかしたら、少女へ向ける男たちの欲望は、もっとあからさまになっていやしないだろうか、などと思ったりもする。 昭和から平成になったあの年、宮崎勤の事件が衝撃だったのは、「ロリコン」の危険性、犯罪性を社会に強烈に知らしめたからではなかったかと思う。少なくとも、私にとってはそうだった。 あの当時、私が「ロリコン」とか「ペドフィリア(小児性愛)」という言葉を知っていたのかは覚えていない。でも、私自身も、小学生のとき、大人の男性に性被害にあっている。あとで聞いた話だが、母も子どもの頃にあっている。女友だちの多くが、幼い頃に親族男性に性的に触られたり、路上で知らない男からペニスを突然見せられたり、学校教師や塾講師に授業中に身体を触られたりするなどの被害にあっている。知らない男に「写真を撮らせて」と言われるような体験をした女の子だって少なくない。これはまさに、宮崎がやっていたことでもあった。 この国を生きる女の子たちは、警察に訴えるまでもないと黙ってしまいがちな、これが性暴力なのかどうか被害を受けた本人ですらわからないレベルの性的嫌がらせを多々浴びながら生き抜いている。
それでも、89年のあの年、宮崎勤の事件が教えてくれたのは、幼い女の子に性的欲望を向けることが、いかに狂っているか、いかに危険か、ということだったのではないか。幼い子を狙う性犯罪は迷わずに警察に突き出すべきなのだと、少なくとも、そういう意識が社会に共有されたと私は思っていた。 それなのに、どうなのだろう。 この35年、この国を生きる女の子たちが安全になったとはどうしても思えない。 児童ポルノなどの表現物への規制は進んだ一方で、2次元やAVなどの表現物では、幼女への性的欲望や暴力は表現の自由として認められている現実がある。いやむしろ、35年前よりもずっと、「成人男性による幼女への性的欲望」というものは、あからさまに、暴力的に、表現として、ビジネスとして成立し流通している現実がある。 「宮崎勤の被害者です」 そう伝えてきた女性に、どのように返事をしていいのか私はわからなかった。わからないながらも、私は自分のことを書いた。あの年、89年のあの年に、私の人生も変わったのだと伝えたかった。 私は女性向けのセックスグッズのお店を96年に始めた。 どうしてそんなお店を始めたのか? 30年も前に? と聞かれることは多い。その時に私は、89年に逮捕された、女子高生コンクリート詰め殺人事件と宮崎勤の事件を話してきた。10代の最後に報じられた事件が、私を、性とフェミニズムの世界に強烈に引っ張ったのだ、と。女の子が女の子ゆえに殺される社会はいやなのだ。女の子が安心して生きられ、安心して性を語って楽しめる社会を生きたいと思った。そんな話を彼女に伝えた。 35年経っても終えることができない世界。私たちにはまだまだ語らなければいけないことがある。
北原みのり