悲願Vの東海大を支えた科学力と箱根駅伝特化トレ
平成最後の箱根駅伝。大歓声に沸く大手町へ、最初に飛び込んで来たのは東海大だった。「スピード軍団」にふさわしく大会新記録となる10時間52分09秒でゴールした。 往路を首位・東洋大と1分14秒差の2位で折り返した東海大は、復路でプラン以上のレースを見せる。6区中島怜利(3年)は区間歴代3位の58分06秒、7区阪口竜平(3年)も区間歴代5位の1時間2分41秒と快走。2区間で東洋大に4秒差まで接近した。そして、当日変更で8区に入った小松陽平(3年)が爆走する。 小松は東洋大・鈴木宗孝(1年)に追いつくと、その背後にピタリとつける。苦しそうな顔の鈴木に対して、小松は余裕な表情だったが、前に出ることはしなかった。小松が走り出す直前、両角速駅伝監督は「すぐについて、(相手を)前に出して、じっくりと落としていくように」という指示を伝えていたからだ。 小松が動いたのは14.6kmだった。「動きや表情を見て、相手が苦しそうなときに勝負をかけようと思っていました」と遊行寺の坂が始まる前にスパート。鈴木を一気に突き放した。攻略の難しい8区だが、小松は1997年に山梨学大・古田哲弘が樹立した区間記録を16秒更新する1時間3分49秒で走破。東海大が初めて首位に立つと、東洋大に51秒差をつけて勝負を決めた。 「自分が生まれた年の大記録をまさか更新できるとは思っていませんでしたね。6区、7区で東洋大との差を詰めてくれたので、自分で勝負を決めようと思っていました。100点満点の走りです」と小松。学生駅伝デビュー戦で、大会最優秀選手に贈られる金栗杯もゲットした。 小松は東海大の中でもスピードを象徴する選手のひとりだった。前回大会は12月に1万mで学生トップクラスの28分35秒63をマークするもハーフの実績がないという理由でエントリー漏れ。この1年間はスタミナ強化に重点を置いて取り組んできた。 順調にトレーニングを積んできた小松だが、8月中旬に左足首を捻挫。1か月走ることができず、出雲と全日本は欠場する。 「何区でもいいから走りたい」と11月以降は必死に駆け抜けた。 中島が脚の不安を訴えたため、10日ほど前には6区の準備をするも、4日前に8区での起用が固まり、すぐに車でコースを下見したという。そして、10区間で最古の区間記録を塗り替えて、東海大に初の総合優勝をもたらした。 小松の快走には東海大が持つ“科学力”が大きく影響している。16人の登録選手は睡眠時のデータを取得しており、小松はパフォーマンスに影響が出るという副交感神経の数値がすごく良かったため、専任教授から起用を勧められていたからだ。両角監督も小松は絶好調と判断。復路の勝負どころに投入して、予想以上の結果につながった。 東海大はマラソン日本記録保持者の大迫傑らが所属するナイキ・オレゴン・プロジェクトも利用している「低酸素テント」を日本のチームではいち早く導入。大学内には「低圧室」もあり、標高3000m以上と同じ環境で血中酸素濃度が通常の70%以下になるまで追い込むトレーニングをするなど、最先端の科学を活用してきた。