【写真多数】川崎のトロリーバス、「解体」から一転、別場所での「保存」に向け搬出完了
◆トロリーバスが登場した理由
ところで、電車とバスをミックスしたようなトロリーバスが、なぜこの時期に登場したのかといえば、1つには当時の燃料事情があった。戦前、戦中と石油の輸入を断たれて苦しい思いをした我が国。燃料事情は、今後もどうなるかは分からない。 当時はガソリン不足のため、バス会社にはまだ代燃車(木炭などを燃料とする車)が残っていた時代である。 そこで、アメリカをはじめ海外での実績があり、動力費の安いトロリーバスが注目されたのだ。また、軌道が不要なトロリーバスは設備投資の面でも有利であり、日本の狭い道路事情からしても、市電よりもトロリーバスのほうが合っていると思われた。こうしたことから、GHQもトロリーバスの導入を強く指導したという。 しかし、実際に導入してみると、デコボコな道路やカーブで屋根のポールが外れやすく、乗務員泣かせな乗り物であった。 さて、川崎のトロリーバスは川崎駅前から市電の池上新田を結び、さらに1954(昭和29)年8月には、埋め立て地の水江町まで延伸された。 その後、川崎駅前の道路混雑が激しくなると、起点の古川通り(小美屋デパート前)でのUターンが困難となり、1962(昭和37)年からはテニスのラケット状の経路(川崎駅付近が、両回りの循環線)を走るようになった。
◆わずか16年で廃止に
このように市中心部と臨海工業地帯を結び、工業都市・川崎の通勤需要を支えたトロリーバスであったが、活躍した期間は短かった。レールがないとはいえ、架線に沿って進まなければならず、渋滞時に小回りが利かないのは市電と同様であり、また、ディーゼルバスの発達により、動力費における優位性もなくなった。 川崎のトロリーバスが廃止されたのは、1967(昭和42)年4月。二子塚公園に保存された104号車のほか、隣の横浜市へ移籍した車両もあったが(701~704号車)、その横浜市のトロリーバスも、横浜市電とともに1972(昭和47)年3月に廃止され、姿を消した。