「ワシ、投げるから」先発が続投なのにマウンドへ…“批判されたエース”金田正一の埋もれた事実「メジャーも熱視線」「巨人移籍後の成績は?」
残留を決意したはずの金田が巨人に移籍したワケ
しかし金田は1964年オフ、15年君臨した国鉄を退団し、巨人に移籍する。 当時のプロ野球界には「10年選手」という制度があった。実績を挙げた選手は10年間同一のチームでプレーすると「自由移籍」「ボーナス」のいずれかを選択できるというものだった。金田は1959年オフに「10年選手」の資格を得たが、紆余曲折があったものの「残留」を決意している。 その風向きが変わったのは、1960年頃である。 国鉄の赤字経営が問題視され「赤字の国鉄がプロ野球チームを持っているのはけしからん」という声が上がる。これを受けて国鉄スワローズには1962年からフジサンケイグループが資本参加、次第にフジサンケイグループの意向が強くなる中で、1964年金田は巨人への移籍を決意した。金田が去ったスワローズは、1965年シーズン中に国鉄が資本を引き揚げサンケイスワローズとなる。まさに国鉄スワローズは「金田に始まり、金田に終わった球団」だったと言える。 金田正一の長男で俳優の金田賢一は、金田が引退してかなり経ってから「親父はJRの改札をいまだに“おっ”て手を上げて切符を買わずに通っていますよ」と話したことがあるが、国鉄愛は深く、後年「ホンマにいい球団だったのよ、弱かったけど暖かかった。同じ貧乏球団でも広島カープは今でも存続しておる。スワローズも身売りしなければよかったんや」と述懐している。
巨人での5シーズン、タイトルは1つだけだった
巨人では5シーズン投げた。1年目に防御率1位のタイトルを得たものの、タイトルはこの1つだけ。47勝31敗、防御率2.83の通算成績だった。 しかし金田が移籍した1965年から巨人は空前の「V9(9年連続リーグ優勝、日本一)」が始まる。金田は国鉄では一度も経験しなかった日本シリーズを何度も経験し、1968年には日本シリーズ優秀投手になっている。 1968年の金田は11勝を挙げたものの10敗、防御率は3.46まで落ち込んだが、この時点で395勝。史上初の400勝に向けて金田は最後の力を振り絞る。 1969年10月10日の中日戦、前日にリーグ優勝を決めていた巨人は、城之内邦雄が先発し4回まで投げて3-1とリードして、金田にマウンドを明け渡す。金田は1失点したものの7-2で巨人は勝利。前人未到の400勝を達成した。
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