「ワシ、投げるから」先発が続投なのにマウンドへ…“批判されたエース”金田正一の埋もれた事実「メジャーも熱視線」「巨人移籍後の成績は?」
日米野球を受けてMLBが熱視線を送ったことも
なぜ、金田はこうした偉大な成績を挙げることができたか? 当然ながら、金田が投手として抜群の実力があったことが大きい。金田は後年「わしの全盛期には速球は170km/h(180km/hとも)は、出ておっただろう」と豪語している。今となっては証明の術はないが、当時としては圧倒的な速球投手だったのは間違いない。またカーブも「史上最高のカーブだった」という評価がある。 高い評価は、日本国内だけではなかった。 金田は1951年の全米オールスター戦から1960年のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦まで日米野球に6回出場しているが、MLB側も金田の獲得を真剣に検討したと言われている。もっとも金田は海を渡る気持ちはなかったようだが――。 金田は身長184cmと当時としてはずば抜けて大きかった。勝利数2位350勝の米田哲也は180cm、3位320勝の小山正明も183cm。「体格」は大きな要素だろう。さらに当時は、現在よりも試合間隔が空いていたことも大きい。 今のNPBは約半年(約180日間)で143試合を消化する。シーズン中はほぼ8割の日に試合が組まれているが、昭和の時代は7カ月(約210日)の間に130試合を消化する日程だった。現在では試合間隔が3日以上開くことはめったにないが、昭和の時代はシーズン中に4日、5日試合がないことも珍しくなかった。登板間隔に余裕があったことで、金田は多くの試合に登板することができた。
金田が「故障知らず」だった要因を推察すると…
さらに言えば、金田正一は「故障知らず」だった。 同時期、各球団のエースは金田同様、先発救援で大車輪の活躍をした。西鉄の稲尾和久は1956年から63年の8シーズンで70試合以上登板が4回、60試合以上6回、1961年にはシーズン42勝、30勝以上を4回記録し234勝を挙げたが、1964年以降は成績が急落し、6年間で42勝を挙げただけで1969年、32歳で引退した(通算276勝)。 また南海の杉浦忠は1958年にデビューすると27勝、翌59年には69試合に登板し38勝、60年も31勝を挙げたが、それ以降は成績が急落。1965年から6シーズンで23勝しか挙げられず、200勝に届かない187勝で引退した。 当時のエースは数年大活躍をした後、肩、ひじ、腰などを痛めて急速に衰えるのが常だったが、金田は1950年のデビューからほとんど故障知らずだった。 それだけ理にかなった投球フォームで投げていたからだと言われている。また金田自身が自身の体調管理にストイックに取り組み、独自に編み出した調整法を実施していたことも大きかっただろう。同時に金田が所属した国鉄が、創設以来ずっと優勝争いに無縁で「エースに無理をさせる状況」になかったことも大きかったのではないか。
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