「発達障害」といわれるとき、発達の「開始の部分」と「ゴールの部分」はどこにあるのか?
自立とは何だろう
人と鳥には実はもう一つ共通項があることにお気づきであろうか。原則として両者とも一夫一婦制なのである。最近の研究では鳥もしきりに浮気をするらしいことが明らかになったが、つがいで子育てに励む姿は、さまざまな動物ものドキュメンタリーでご存じであると思う。これも卵生から生じる抱卵期を含む長い子育て期間ということを考えると、よく理解ができる。非常に未熟な子どもを抱えての子育ては、夫婦の共同作業を要求するのである。 実は人にしても同様である。特権階級においては子育てに夫婦の分担作業を必要とせず、したがって、必ずしも一夫一婦制をとってこなかったが、古来一般の人々では子育てには夫婦の共同作業が必要だった。家族とは、本来子育てのための単位である。今日、さまざまな家族のあり方が存在しており、筆者はそれを否定するものではない。 だがひとたびその家族に子どもが加わったときには、子育ての単位としての機能が、子どもが全面的な世話を必要とする時期、少なくとも3年間、できれば12年間、は求められる。これは発達障害の有無を越えた事実である。 特に生後3年間は、できるだけ親は子どものそばにいてほしいと思う。そばにいるといらいらして虐待してしまうという場合も、困ったことに今日少なくないので、例外はあるとしても、人間の子どもという存在は、子育ての早期には養育者の絶対奉仕を要求するのである。もちろんそこには大きな喜びもあるのであるが。 筆者としては女性の自立は必然でもありまた必要でもあると思うが、誰かが子育てを担わなくては被害を受けるのは子どもの側であり、それは社会全体に十数年後には跳ね返ってくる。子育ては集団よりも個人のほうがよい。特に生後早期から数年間において個別のそだちが必要であることは、乳児院でそだった子どもたちが後年、心の発達の問題を抱えやすいことからも、さらにイスラエルのキブツをはじめとするさまざまな実験からもすでに証明済みのことである。 アメリカなどいわゆる先進国の格差社会の中で、社会的な地位の高い夫婦は男女とも働いていることが少なくないが、そのような家庭ではベビーシッターを雇っているのである。これは、母性をお金で買っていることに他ならず(しばしばベビーシッターは移民マイノリティーなど社会的下層の女性であったりする)、これが最良の方法とは筆者にはどうしても思えないのである。 さて次に、ゴールのほうの問題である。 そだちの終着点とはどこにあるのだろうか。自立にあることは疑いないであろう。では自立とはどのような状態であろうか。古来、自立についてさまざまなことが言われてきた。自分の家族をあらたに持つことであるとか、仕事を得て経済的に自立していることであるとか、心理的に一人で生活ができることであるとか。 筆者としてはここは単純に、次の三つを自立の目標としたい。1、自分で生活できる。2、人に迷惑をかけない。3、人の役に立つ。こうして単純化をさせてみると、仕事を得てタックスペイヤーになり、さらに社会的なルールを守ることができていれば、自立という課題は達成できたということになる。 このように、人として生まれた子どもが、受精した瞬間から社会の中で生き、自立するまでの過程全体が「発達」である。 * さらに【つづき】〈発達障害は「生まれつき」か「環境」か…? 近年、「発達障害が増えている」と言われる「納得の理由」〉では、発達における育ちや環境の要因についてくわしくみていきます。 ※本書で取り上げられている事例は、公表に関してはご家族とご本人に許可を得ていますが、匿名性を守るため、大幅な変更を加えています。
杉山 登志郎