沖縄復帰50年 格差や基地問題は解消されたのか?問い続ける1972年生まれの「復帰っ子」たち
米軍による軍政府、米国民政府の統治のもと、1952年に立法・行政・司法の三権を備えた琉球政府が設置された。本土では1947年に日本国憲法が施行されたが、沖縄には適用されなかった。沖縄では事実上、主権はなく、米軍が絡んだ刑事犯罪などに関して捜査権もなかった。 一方、米国統治の期間、米兵による犯罪が年々増加。ベトナム戦争が熱を帯びる1960年代後半は、沖縄の基地に多くの米兵が来たことで犯罪件数は年間1000件以上になった。沖縄県民の米軍への反感や忌避感が大きくなり、早期の本土復帰を望む声が高まった。 1972年5月、沖縄は本土復帰を果たし、社会生活も日本の様式に転換した。ドルから円へ、車は左側通行に。立法・行政・司法の三権を行使する施政権は日本の法体系になった。当時、日本は高度成長期の後半で、日本政府は沖縄に対して長期的な支援政策を整備した。第1~3次沖縄振興開発計画を掲げ、大型の公共事業を実施していった。 こうした転換期に生まれたのが、復帰っ子だった。だが、そう呼ばれても、自身をどう位置づければよいのか困惑してきた人もいる。
復帰は手放しで喜べなかった
那覇クルーズターミナルまで徒歩数分の那覇市若狭地区。その一角にある若狭公民館は、公民館活動を評価するさまざまなコンクールで15もの賞を受賞してきた。ここを運営しているのが、NPO法人「地域サポートわかさ」。理事で館長の宮城潤さんも、復帰っ子の一人だ。 宮城さんは復帰っ子という言葉に親しみを覚えつつも、そのくくりを全面的に肯定してきたわけではない。どちらかと言えば、復帰という言葉を語るのが難しいと感じてきた。 「5月15日が近づいてくると、あなたたちは復帰っ子ですねと学校の先生が言う。だから、意識はしてきました。同級生がつながる言葉ではありますが、その言葉に思い入れがあるわけでもない。やはり復帰前を知らないからでしょう」 宮城さんは沖縄県立芸術大学大学院(彫刻専修)を修了後、2001年に現代アートの団体を設立。その後、公民館の活動にも手を広げた。そのなかで、前泊さんの復帰っ子の活動(協議会)に参加するようになった。