沖縄復帰50年 格差や基地問題は解消されたのか?問い続ける1972年生まれの「復帰っ子」たち
改善されてこなかった問題を変えていく
同年5月15日、協議会の主催で「復帰っ子議員と語る沖縄のこれから」というシンポジウムを開いた。県議や市議ら4人の議員が集まり、観光産業や基地問題などを論じた。当時、前泊さんは協議会代表という立場で関わったが、こうした議員との関わりの中で、自身も政治参加する決意を抱いた。 2009年の那覇市議会選挙。前泊さんは無所属で立候補すると、先達がしていたように、自身も「復帰っ子」と選挙ポスターに記した。ただ、それは選挙のためだけではなかったという。 「私自身は復帰っ子と呼ばれることで、復帰後の沖縄の将来を担おうという思いができたし、議員という責任を負う決断ができた。復帰っ子じゃなかったら議員になっていなかったと思います」 当選後は議会改革や地域の目線を重視して活動し、2015年には第10回マニフェスト大賞で優秀マニフェスト賞をとるなど外部の評価も得た。ただ、自身が歩んできた50年間を復帰後の沖縄の姿と見たとき、まだ課題は山積みだという。
「2016年に公表された沖縄県の独自調査で、沖縄の子どもの相対的貧困率は29.9%。全国平均が16.3%なので、その1.8倍です。背景には全国に比べて所得が低く、若者や非婚のひとり親家庭が多いことがあります。私は当選1期目から、非婚ひとり親世帯への寡婦控除適用の実現や「那覇市ひとり親家庭自立促進計画」などの議論を通して、支援策につなげてきました。県外の人たちは基地問題ばかりを見ると思いますが、ここで生活する市民としては労働環境の改善や貧困問題、あるいは多様な性の尊重など身近な問題が大事。なかなか改善されてこなかった問題を変えていくことが、復帰っ子たちの使命なのではないかと思います」
車は右側通行、通貨は米ドルの時代
米国が統治した1945年から1972年までの27年間を、沖縄では「アメリカ世(ゆー)」と呼ぶ。法律はもちろん、社会生活でも今とはさまざまな違いがあった。 通貨は1948年から10年間は「B円」、1958年から1972年の返還までは米ドルだった。B円は軍が発行する疑似紙幣で1000円から10銭まで種類があり、本物の円と比べて約3倍の価値があった。道路は米国と同様、車が右側通行。本土への渡航には渡航証明書(パスポート)が必要だった。