島津重豪の治世で「莫大な借金を抱えた薩摩藩」を救った調所広郷の手腕
財政改革の切り札「流通海運政策」
調所広郷の財政再建の一つの手法をみる。 「藩領内で生産した米は肥後米よりは劣るものの、俵を精巧に造り、米の品質もあがり他領米より優れたものであると思われるのに実績が得られないのはなぜか」。調所はその疑問を持っていたが、解答を見出していた。 問題点は大坂への米積船が「年々長防又ハ阿州辺の借船にて候」(「海老原清熙家記抄」)にあることを指摘し、長州・防州、阿州から薩摩藩に商売に来た帰船に薩摩藩の米・専売品を日本の流通拠点大坂に運んでもらっていたことに起因していることを突き止めたのである。 阿州とは阿波藩のことで、薩摩藩でも需要の高かった藍玉商売に来た船の帰り便を頼っていたことは、運賃が極端に安かったことによるものであるが、それは逆に、藩独自に所有する船団がなかったこと、海運業者が成長していなかったことをも意味するのであった。 その解決策に、四艘(富吉丸・富永丸・富福丸・富徳丸)を重富(鹿児島県姶良市)で造船して藩直営による海運業務を営み「三島方」と称した。他藩船に頼った海運では大坂で商売する時期や数量を管理することができないため、効率化や利益、将来性を見越した藩営商船団所有という決断がなされたのである。 その後、藩営商船団は三島方改革により黒砂糖運送を以て組織され、「運漕ノ船々数十隻造船ノ資金ヲ貸シ三島用船ト唱」とあり、薩摩藩財源の中核である黒砂糖専売の運送を担うことになった(「海老原清熙家記抄」)。実際には黒砂糖運送を中心としながら、非常事態には兵粮・弾薬運送の役割を担ったことが知られる。 前之浜、指宿、山川、久志、坊、加世田、川内、阿久根、出水、波見、柏原、日州赤江等ヘ大船二十三反帆之船ヲ頭トして五反帆等之中船多数新作シ、平常南諸島之砂糖運輸之為メ使用シテ、非常之節ハ訣船ヲ以テ、粮米弾薬等運搬ノ為メニ備置ケリ、 大坂への米積船に端を発した海運は、調所広郷の黒砂糖専売制度整備に伴う有益な輸送方法として拡大し、この藩御用船としての雇船の建造を領内各港の商人が担っていった。それまで薩摩藩が藩内のすべての貿易を独占していたために、豪商は存在しなかったが、ここに至って船持ち商人(海商)が誕生する契機となったのである。 新造船建造には特別な貸付をし、返済についても、「返上方之儀は島方一上下何程宛と五六ヶ年目には皆納相成仕向」とあるように、上方・奄美間の黒糖運輸に従事させ、五、六年ほどで返済できるよう取り計らう旨の政策を打ち出している(『薩藩天保度以後財政改革顚末書』)。 その成果について、天保6年(1835)閏7月10日付浜村孫兵衛宛調所笑左衛門書状に、 「只今ニてハ船造立願、余多ニて困リ入候位ニ御座候、是まてハ何様才足(催促)いたしても皆断勝之処、右様ウルサクほと願人ニて込入申候、是ニて物毎(物事)うらはら成たる試験ニ御座候、皆以御蔭ニて候」とあり、この施策が最初は思惑通りにはいかなかったものの、後には調所広郷の意図したように順調に展開したことが知られる。 このように、天保年間(1830~44)から幕末にかけての活発な海運は、藩の海商への手厚い保護のもとに展開されたものであり、海商の活発な活動が黒糖などの専売制を支え、藩政改革の一翼を担ったといえる。
新名一仁(宮崎市史編さん室専門員), 徳永和喜(鹿児島市立西郷南洲顕彰館館長)