島津重豪の治世で「莫大な借金を抱えた薩摩藩」を救った調所広郷の手腕
薩摩藩の借財と原因
薩摩藩の借財の推移を表にまとめると、次のようになる。 財政困難の経緯を示す史料「海老原雍齋君御取調書類草稿」によれば、江戸邸中月給十三カ月滞リ、諸買物ノ代価・夫賃亦同シ、使ヒ出ルニ駕籠ノ夫ヲ給スルコト能ハス、歳末ニ贈ル目録モ金ヲ渡スコトヲ得ス、邸中草長シ馬草トスルニ至リ とあるように、江戸藩邸勤務の藩士の給金が13か月も滞り、藩邸には草が生え放題で人夫雇用の賃金もなく馬の秣として馬に食ませる次第であったという。さらに参勤交代の旅費もなく江戸滞在を余儀なくされるなど「至困の極」なりと表現している。 借財が急激に嵩んだ理由について、新納時升著の『九郎物語』(本来は苦労の意味)には重豪時代の繁栄の裏にどれほどの経済負担があったかを実直に述べた鋭い指摘が記されている。 第一は、将軍家への輿入れと将軍家との交際費用が厖大であること。十一代将軍徳川家斉の正室となった重豪の娘茂姫(後の広大院)の経費を新納時升は「此事は商議の及ぶ所にあらず」と書くなど、それがどれほどであったか、計り知れないといっている。 第二は、薩摩藩には三侯(藩主が三人)いるという。高輪邸には大隠居重豪、実質20万石相当の諸侯並みの生活や必要資金、白金邸の隠居斉宣は10万石相当の諸侯並み、それに本邸(藩主)斉興を合わせ薩摩藩は三諸侯を抱えているようなものであり、経費はとても領国生産額では及ぶものでない。本邸の芝には藩主斉興と世子斉彬がいる。 第三は、重豪公子の養子縁組や婚姻政策。重豪は諸侯の養嗣にさせる政策を積極的に実践し、中津藩に昌高、黒田藩に斉溥、八戸藩に信順を藩主養嗣に据えた。養嗣費用は、2、3万両は下らないとのこと、合計は10万両ともいわれ、また、息女十余君を列侯に輿入れさせ、これも一人に一万両は下らず、化粧料一年に一人千両と見積もると合計では一万両、10年すれば十万両と費用負担を推測している。 この3か条により表向きには薩摩藩の威光が天下に輝いたが、財政負担は藩の力をはるかに超え、藩財政は悪化の一途をたどっていった。