ノーラン監督『オッペンハイマー』レビュー。作品が背負った非倫理性と、原爆投下の表象不可能性
悲劇の表象不可能性に向き合う
「自分たちが世界を破壊する連鎖反応の始まりになるのではないか」。中盤、オッペンハイマーはアインシュタインに対して不安を吐露した。そしてラストシーンでは、その結果を尋ねられると、水面の波紋を見つめて「始めてしまったのだと思う(I believe we did.)」とつぶやく。 揺れつづけたオッペンハイマーも、結局は自らの行為がもたらしたことに向き合わざるをえない。被爆地のスライドから目をそらしたオッペンハイマーは、おそらく最後まで原爆投下の惨劇を直視できなかった。しかし、その先に起きることは薄々わかっていたし、その事実を直視することにもなった――。こうした描き方は、実際のオッペンハイマーが日本を訪れた際の発言とも矛盾していない。 『オッペンハイマー』は主人公であるオッペンハイマーの視点に徹頭徹尾こだわり、その内面世界を描くことに重点を置いた。その点において、この映画はそもそも非倫理的な一面をはらんでいながら、可能なかぎり倫理的であることを志していたと言える。筆者には、原爆投下の描写を回避したことは、ストーリーや映像表現のレベルでも、映画史的な意味でも、また当事者性においても、事実上の唯一解だったように思われるのだ。 なぜなら、ノーランがこの題材を描くうえで当事者の立場になりえたのは、権力をもつ白人男性としてのオッペンハイマーやルイス・ストローズ、陸軍将校レズリー・グローヴス(マット・デイモン)らしかありえなかったからだ。その一線を越えて原爆投下を描くことは、きわめてセンシティブな題材を非当事者が扱うことであり、現在のハリウッドや映画界においては、作品性とは異なるところで大きな批判を招くこともありえた。 もっとも、「原爆の父」を描きながら原爆投下を直接的に扱わないという選択も、同じように批判を招くことは避けられなかったのだ。日本の被爆者だけでなく、マンハッタン計画のために生活を奪われたネイティブアメリカンも物語のなかには登場しないが、これは原爆の脅威やその被害者の軽視にあたるという声も少なくない。そもそも本作は「反戦・反核」というわかりやすいメッセージを打ち出すこともしていないため、結局は原爆を投下したアメリカ視点の映画だといわれることもある。 もっとも、それらは作り手の主眼がそうした問題になかったための選択であり、また社会にとって正しいメッセージを明快に伝える映画をつくることを目的としなかったがゆえの結果だと考えられるが、とかく現代は創作においても全面的な正しさが求められ、なんらかの落ち度があればそこに批判が集まる。作品外においても、すみやかに政治的立場を表明するよう求められることが多い時代だ。歴史的事象を独自の切り口で描くこと自体にリスクがともない、もっと言えば、フィルムメイカーが自分なりの目線で世界を切り取ること自体がこうした現状とは相性が悪い。あえて乱暴な言い方をすれば、コロナ禍以降、作家性の強いチャレンジングな中規模・小規模映画が衰退し、安心安全なフランチャイズ映画が台頭してきたこととも無縁ではないだろう。 しかし別の見方で言えば、ノーランは原爆投下の表象不可能性にむやみに挑戦し、その現実を軽く見積もることもしなかったのだ。たとえば、マーベル映画『エターナルズ』(2021年)には原爆投下後の広島が登場するシーンがあったが、この場面は2時間36分の上映時間中およそ1分。CGで美しくデザインされたキノコ雲と焼け野原に、合成用のグリーンスクリーンを前に流されたであろう役者の涙をもって、原爆や「広島」を表象したことにしてしまって本当によいのだろうか。それでも「描くことこそが正しい」のだとしたら、それは『二十四時間の情事』が発表された65年前よりも大幅に議論が退行していないか。 最後に、奇しくも第96回アカデミー賞で『オッペンハイマー』と複数部門を争い、国際長編映画賞に輝いた『関心領域』(ジョナサン・グレイザー監督)も、この表象不可能性の問題に挑んだ映画だったことに触れておきたい。アウシュビッツ強制収容所の隣にある新居で穏やかな生活を送る所長一家の物語だが、この作品は、原爆投下と同じく「表象不可能」といわれるホロコーストを独自のやりかたでスクリーンにみごと表現してみせた。 『二十四時間の情事』のアラン・レネは、1956年にホロコーストのドキュメンタリー映画『夜と霧』を発表してもいる。世界で戦争と虐殺が起こっている今年、オスカー像に輝いた2本の映画は、ともにそれぞれの方法で表象不可能性の問題に取り組みながら、それらにいち早く挑戦したアラン・レネの再解釈を試みたのだと言えるはずだ。 なによりも『オッペンハイマー』と『関心領域』は、人類史上の惨禍と2020年代を鮮やかなやりかたで対照しつつも、少なくとも映画のなかでは複雑かつ曖昧な語りを駆使することで、目先の世界情勢や政治状況へのわかりやすい接続を拒んでいるように見える。それは、現在の出来事と歴史を一足飛びに結びつけるのではなく、個別の歴史を真摯にとらえながら、あえて迂回するようなかたちで、その延長線上にあるいまの世界を考えることだ。SNSを開けば恐ろしい戦場の映像が流れ、ストレートな言葉と論争があふれる時代だからこそ、このような作品に出会うと、映画というメディアがもつ一種の冗長性や、歴史を踏まえて未来を見据えられる耐久性の強みを思い知らされるのである。
テキスト by 稲垣貴俊 / 編集 by 生田綾