ノーラン監督『オッペンハイマー』レビュー。作品が背負った非倫理性と、原爆投下の表象不可能性
矛盾とジレンマに満ち、非倫理的な側面を持つオッペンハイマーに「寄り添うことを選んだ」
もともとノーランがオッペンハイマーの半生に惹かれたのは、その生きざまが「矛盾とジレンマに満ちていた」からだという。それは『ダークナイト』3部作のバットマン/ブルース・ウェイン、『インソムニア』(2002年)でアル・パチーノが演じた刑事、『メメント』の記憶障害を患った主人公など、あえて言い切るならば、ほとんどすべてのノーラン作品に共通する要素だ。 彼らは目的のために突き進むばかりに、決定的な倫理の一線をどこかで踏み越えてしまう。物理学を愛したオッペンハイマーは、未知の研究に取り組むことの喜びと興奮に耽溺したばかりに国家によって利用され、原子爆弾という大量破壊兵器をつくり出し、世界のありようを変えてしまったのだ。 映画の中盤、オッペンハイマー率いる科学者チームは、絶対に失敗できない人類史上初の核実験(トリニティ実験)に挑む。ここでノーランは、明らかにオッペンハイマーに対して一種の共感をおぼえており、原爆開発には「映画製作」のイメージが重ね合わされているのだ。歴史上かつてないものをつくり出そうとする科学者はフィルムメイカーの、彼らを制御したがる軍部は映画スタジオのメタファーに見えてくる(そういえば、マジックに命をかける奇術師同士の対決を描いた『プレステージ』(2006年)を、ノーランは「映画づくりについての映画」だと語っていたではないか)。 したがってトリニティ実験は、「果たして無事に成功するのか、原爆は完成するのか」というスリルとカタルシスをもって描かれる。しかしながらその先に待つのは、言わずもがな、人類史上最悪の惨禍だ。このことをエンターテインメントとして描く危うさを、本作ではオッペンハイマーが味わう罪悪感へと反転させることでぎりぎり成立させた。 映画の後半、自身の責任と倫理をひたすらに問われるという一種の裁判劇を通じて暴かれるのは、オッペンハイマーがうやむやにしてきたこと、言いかえれば人間として中途半端だった部分だ。自身が熱狂した実験の結果を、彼は本当に予期していなかったのか。恐ろしい惨劇が起きることを、実際はどこかの時点で悟っていたのではないか? しかし、そもそもオッペンハイマーの非倫理的な側面は原爆開発にとどまるものではなかった。妻子のある身ながら、欲望のままに元恋人のジーン・タトロック(フローレンス・ピュー)と逢瀬を重ね、精神的に不安定な彼女を自死に追い込んだ。優秀な学者にもかかわらず家庭に入り、夫を支えながら子どもを育てる妻キティ(エミリー・ブラント)への配慮も欠けていた。実験をめぐって不穏な気配が生じると、その場しのぎの対応で悲惨な結果をもたらした。他者の気持ちがわからず、無意識に相手を傷つけた。 しかも恐ろしいことに、ほとんどの場合、オッペンハイマー自身にはそうした自覚がない。まったくもって間違いだらけ、過ちだらけの人物である。 ところがノーランは、そんなオッペンハイマーにとことん寄り添うことを選んだ。観客は彼の目線から原爆開発を体験し、その浮ついた私生活を見つめる。視点が変われば、ときに彼は驚くほど冷淡で、つかみどころがない。 しかし、それでもオッペンハイマーを「非倫理的で感情移入できない人間だ」と単純に断じられないのは、揺らぎつづける人間性がそこにあるからだ。「これ以上先に進んではいけない」――そんな警告が頭の中で鳴っているにもかかわらず、なぜか前進してしまうという人間らしさを、心の底から断罪できる者がいったいどれだけいるだろうか?