ノーラン監督『オッペンハイマー』レビュー。作品が背負った非倫理性と、原爆投下の表象不可能性
『二十四時間の情事』と『オッペンハイマー』の共通点
ノーランのアプローチは、『二十四時間の情事』におけるレネの選択とそっくりだ。歴史的に言っても「何も見ていない」オッペンハイマーの視点に忠実である以上、原爆投下の実際を描くことはできないという事実を受け入れている。広島に原爆が投下された後、興奮する人々を前にオッペンハイマーが演説するシーンで、彼は被害の様子を想像し、わずかにその幻を見るが、それもまた被爆の現実からは相当かけ離れていた。 『オッペンハイマー』は原爆にまつわる記録映像を安易に使用することも、当時をそれらしく再現することもしていない。しかし同時に、その惨事をなかったことにもしていない。ノーランが「広島」を宙吊りにしたことで、オッペンハイマーと観客たちは、この物語のなかで恐ろしい悲劇を目の当たりにし、その風景に何かを感じ取ることはできないのだ。そのなかでは『ヒロシマ・モナムール』のフランス人女性のように、かんたんに広島の「すべてを見た」つもりになることや、広島のなにかを知ったつもりになることもできない。 劇中、オッペンハイマーはトリニティ実験の爆発だけはまともに直視している。しかし、それは原爆や核の象徴ではなく、あくまでも彼が見た一種の奇跡だ。ノーランは、実際に記録映像が残っている爆発の恐怖を再現しつつ、同時に稀有な美しさを表現するために、CGではなくリアリティある実写の特殊効果を使用したのだと述べている。「核爆発の実際は描けない、しかしオッペンハイマーの見た景色なら描ける」という点で、やはりノーランの態度は一貫しているのだ。 『二十四時間の情事』と『オッペンハイマー』を結ぶ奇妙な一致がある。トリニティ実験の成功を知らしめる爆発の炎と煙を見つめながら、オッペンハイマーは「われは死神なり、世界の破壊者なり」とつぶやいた。これは古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節で、実際のオッペンハイマーもこの言葉と自らを重ねていたという。 もっとも、劇中でこの台詞が口に出されるのはこれが二度目で、一度目はオッペンハイマーとジーン・タトロックの情事の最中だった。『二十四時間の情事』で男女が身体を重ねながら広島について語ったのと同じように、『オッペンハイマー』では情事のさなかにその後の悲劇と困難が予言される。これは「性(エロス)」と「死(タナトス)」の表現が偶然共通しただけなのか、それともノーランが意識的に、あるいは無意識的に仕掛けた接点だったのだろうか。