「トルコ海峡史」をひもとく日本人の著書 約100年の時を経てトルコで出版 ウクライナ・ロシアの穀物輸出合意にもつながる
ロシア・ウクライナの穀物輸出合意で顕著に…トルコ海峡問題の重要性
海峡問題といえば、2022年にロシアがウクライナ侵攻し、黒海を封鎖したため、ウクライナからの海上輸送による穀物輸出が滞った問題がある。その後、ウクライナの穀物輸出はトルコと国連が仲介することでトルコの海峡地帯を経由して再開することができた。 私達もボスポラス海峡の黒海に近い所まで行き、合意後、最初に通過する穀物輸送船を取材したが、丘の上は世界各国の報道関係者でいっぱいだった。 当時、ニュースで頻繁に話題に上っていたのが「モントルー条約」だ。これはトルコ領内のボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡の航行に関する規則を定めた条約で、1936年に締結され現在も有効である。 一方で、芦田氏が本を1930年に出版した時には「モントルー条約」はなく、前身となる「ローザンヌ条約」が締結されていたが、芦田氏はその条約の問題点及び改善点が挙げていて、まさに当時の時事問題だったのである。
ローザンヌ条約までのトルコ海峡史・国際関係史
ローザンヌ条約までの海峡史を振り返ると、オスマン帝国は16世紀から共通の敵であるドイツ(神聖ローマ帝国、後にハプスブルク帝国)に対抗するためフランスと同盟を結んでいた。当時、圧倒的な国力を誇っていたオスマン帝国は、伝統的な「非イスラム教徒保護」の恩恵として、フランスに通商上の特権を与えていた。しかし、後に他の西欧諸国にも同様の特権を与えたため18世紀以降、経済的に進出されることになりオスマン帝国は弱体化し主権喪失が進んだ。 不凍港の獲得を目指して南下政策を取っていたロシアとの度重なる戦争で疲弊したオスマン帝国は、ついに1774年、キュチュク=カイナルジャ条約で海峡地帯を含む黒海から地中海までロシア商船の通航を認めざるを得なくなった。これを機に、オスマン帝国は次第に海峡を外国商船に開放するに至るのである。 ロシアは19世紀に、南下政策の一環として黒海からの侵出を目指すことになる。これに対し英仏は、仮にロシアがボスポラス・ダーダネルス両海峡を支配下に置き地中海まで侵出した場合、自国の利益を脅かすものとしてロシアの動きを警戒し、衰退していたオスマン帝国と同盟を結んだ。 また、日本とオスマン帝国にとっても南下政策を推し進めるロシアは共通の敵であり、1905年に日露戦争で日本がロシアのバルチック艦隊に対し勝利をおさめると、オスマン帝国は自国の勝利のように喜んだ。 この敗北で極東での南下政策を阻止されたロシアは矛先を西方に転じ、ボスポラス海峡とイスタンブールの掌握を目指した。 英仏が手のひらを返しロシアの同盟国となると、オスマン帝国はドイツに接近する。こうしてオスマン帝国は第1次世界大戦でドイツ中心の同盟国側で参戦し敗北した。 1920年、オスマン帝国は屈辱的なセーヴル条約に調印する。この条約によりオスマン帝国は海峡地帯の主権を放棄し、帝都イスタンブールを含む海峡地帯が「海峡委員会」による国際管理下におかれただけでなく、オスマン帝国領はアンカラ(のちの首都)とその北部の黒海地方の一部だけを残して連合国諸国に分割された。 こうしてオスマン帝国は、マルマラ海、エーゲ海、地中海沿岸を失い、黒海の一部以外に沿岸を持たない弱小国と化したのである。