「急逝」マイティ井上さん…亡くなる前日に電話で話した百田光雄が「最後の会話」を明かす…「声は元気だった…弱ってる感じじゃなかった」
国際プロレス、全日本プロレスで活躍した元プロレスラーのマイティ井上(本名・井上末雄)さんが27日、心室細動のため急逝した。75歳だった。 井上さんの全日本プロレス時代に同団体に所属していた「力道山の次男」百田光雄がスポーツ報知の取材に応じ亡くなる前日の今月26日に井上さんと電話で話したことを明かした。 「3日前にマイティから電話がかかってきて『みっちゃん、どうしてる?』なんて俺の体のことを心配してくれてね。声は元気だったし、体が弱ってる感じじゃなかったんです。だから昨日、息子(プロレスラーの力)から『マイティさんが亡くなった』と聞いて、冗談だろ!?って思ったぐらい、びっくりしました」 マイティさんとは、最近は、年に1、2回電話で話していた。 「俺が肺がんになって『みっちゃん、体の調子はどう?』とか電話して心配してくれてね。マイティは『今は神戸に住んでて』とか『糖尿とかはあるけど、そんなに悪くないんだ』なんて近況を報告しあってましたよ。お迎えが来ている最後に俺の声を聞きたいのかなぁ。元気はあった。弱っている感じではなかった。亡くなる前日に電話をかけてくれたなんて、今、思えば、最後に俺の声が聞きたかったのかなぁ…なんて思うよね。マイティとは仲がよかったからね」 国際プロレスのエースだった井上さんは、団体が崩壊した81年8月後に全日本へ入団した。 「マイティは、溶け込むのが早かったよ。当時の全日本プロレスにはクセの強い選手はいなかったし、みんな全体に和気あいあいといった感じで仲良かったですよ」 巡業に出ると百田と井上さんは、共に夜の町に出かけた。 「巡業出るとよく一緒に飲みにいったよ。酒の席でもやわらかい感じでね。クセも強くなかったから楽しく飲んだよ。歌もうまかったし、女性にも優しかったからもてたよね」 一番の思い出は、1989年2月25日。後楽園ホールで井上さんが持つ世界ジュニアへ挑戦した一戦だという。百田は敗れたが、大健闘にホール全体で爆発的な歓声が起きたジュニアの歴史に残る名勝負だ。 「後楽園ホールでシングルの選手権をやった時にものすごい歓声があがってね。俺は負けたけど、ファンが後押しする応援があって盛り上がってね。マイティはやりにくかったかもしれないけど、あの試合を強く思い出すよね」 井上さんのセンスを絶賛した。 「体は大きくなかったけどプロレスはうまかった。いい選手で会場を盛り上げるのはうまかったよね。大好きな選手でしたよ」 井上さんは、98年6月に現役引退。以後はレフェリーに転向し全日本の中堅の試合を裁いた。2000年6月に全日本を退団し三沢光晴さんが旗揚げしたプロレスリング・ノアに移籍。レフェリーを務めたが09年いっぱいでノアを退団した。百田も同じ時に全日本プロレスを退団してノアへ移った。リング内外で行動を共にした同志だった。76歳の百田は、井上さんへ言葉を贈った。 「レスラー時代の晩年は体を無理してリングに上がっていたし、レフェリーもやってたからね、お疲れさまでしたとしか言いようがありません。マイティは、俺より年が1個、若いから…最近は、俺と同じ年ぐらいのヤツらがどんどん亡くなっていくから寂しいですよ」
報知新聞社