大坂冬の陣で対立した譜代衆と牢人...両者を巧みに治めた「大野治長の調整力」
難しい立場に立たされたとき、一か八かの決断を迫られたとき、 存亡をかけた局面に置かれたとき......、きらりと光る能力を発揮し、 見事に苦境を打開した戦国武将がいた。今回は、大野治長をご紹介しよう。 【写真】後藤又兵衛基次之碑
大野治長が大坂の陣で発揮した調整力
大坂の陣で豊臣軍の指揮をとった大野治長は、徳川家康に敵対し、敗れた武将として評判がよろしくない。後世の軍記物『難波戦記』は、彼を「無道人」とこきおろしている。 徳が無いと言ってしまえばそれまでなのだが、実際のところ家康の幕府軍20万を相手にして、その半数に満たない豊臣勢を取りまとめ、戦った手腕は認めるべきだろう。 実際、敵の大将・家康も、冬の陣が講和になったあと、「治長は若輩者と思っていたが、今度の首謀としての武勇と忠節は見事だった」と評している(『大坂御陣覚書』)。治長は「デキる男」として再評価されるべきだろう。 以上の前提にもとづいて大坂の陣を眺めてみたとき、治長の特長は「調整力」にあったと言える。 慶長19年(1614)10月、東西が手切れとなると治長は、「惣(総)大将分」(『大坂御陣山口休庵咄』)・「頭取」(本多正純書状)・「諸事大野修理指図」(『見聞書』)と全権を握り、真田信繁(幸村)ら有名牢人の雇用にも関与し、豊臣秀頼に代わって面接をおこない、直参の資格を与えるなど、実際に戦いが始まる前から、なかなか難しい立場になることが宿命づけられていた。 大坂城内は、譜代衆と牢人の外様衆、強硬派と穏健派が複雑に対立し、信繁も「よろず気遣いのみ」(書状)とぼやくほどだったからだ。治長は譜代と牢人両方から突き上げられる立場だったが、実に巧みにこれに対処していく。 まず開戦前、信繁が城の惣構の東南玉造口の外側の真田丸を任せてほしいと願い出ると、治長はこれも牢人の後藤又兵衛(基次)に「幕府軍に内通しているのか」と相談した。 信繁の兄・信之は徳川大名だったから、城中の譜代衆が危ぶんで騒ぎ立てたのだろう。治長はその意見を牢人衆の代表格・又兵衛にぶつけたのだ。 又兵衛には「信繁は牢人衆とはいえ、名門・真田の将であり、逆意などあるはずがない」と言われて納得し、信繁の希望を容れた(『後藤合戦記』)。 黒田長政の重臣として数々の武功をたてたことで知られる又兵衛は、秀頼からも信頼され、牢人衆たちからも頼られ、譜代衆から一目おかれる存在だったため、これで皆が納得し、信繁が真田丸の大将となる。 結果的に、12月3・4日の真田丸の戦いは豊臣軍の大勝利に帰したから、治長の決断が功を奏したのだ。 だが、冬の陣講和後にその治長は暗殺されかけ、重傷を負うことになる。その犯人は、なんと弟の治房だった。治房は主戦論の中心人物で、その配下の者が勝手に城内の金銀米蔵を開け、判金(十両大判)も牢人どもが持ち出すなど、治長の調整力をもってしても歯止めが利かない状態となってしまったのだ。 治長は治房を「不届き者」と非難したが(板倉勝重書状)、ついに夏の陣が始まり、大坂城は紅蓮の炎のなかに燃え落ちる。 かつて自分の戦功について「すべて家来の働き」として一切自慢することはなかった(『落穂集』)スマートでデキる男も、秀頼・淀殿と運命を共にして果てた。
橋場日月(作家)