異例の検察庁謝罪から4年、冤罪事件を考える-足利事件
「真犯人と思われない人を起訴、服役させ、大変申し訳ない」。 今から4年前の2009年6月10日、伊藤鉄男次長検事は「足利事件」について検察庁として初めて謝罪をしました。検察が再審前に無実を前提に謝罪するのは極めて異例のことでした。これに対して「足利事件」で17年もの間、冤罪を被らされ続けた菅谷利和さんは「わたしの目の前で謝罪すべきだ。絶対に許さない。」と語り、謝罪の方法を巡って議論が巻き起こりました。 「冤罪という言葉を、自分はずっと知らずに生きてきました。45歳で逮捕されて、起訴されて、裁判が始まってからもなお、よく分かっていなかったと思います。自分を支援してくれる人が現れて、いろいろと教わるうちに、初めて言葉の意味を理解したように記憶しています。」これは菅谷さんによる手記です。1990年5月12日、栃木県足利市のパチンコ店駐車場から4歳女児が行方不明になり、翌朝、近くを流れる渡良瀬川河川敷で遺体となって発見されました。 当時、菅谷さんは幼稚園バスの運転手をしていました。子どもが好きで、天職だと思っていたと言います。しかし、犯人は「独身男性」で「子ども好き」というプロファイリングに引っ掛かり、警察に目を付けられてしまいます。およそ1年間も尾行が付き、ついにゴミ袋を漁られて、DNA鑑定をされてしまいます。 その結果、被害女児の下着に付着していた体液と菅谷さんのDNA型が一致したことが決め手となり、菅谷さんは1991年12月2日に誤認逮捕の後、起訴され実刑判決を受けて服役を余儀なくされました。手記『冤罪』からは思いもよらなかった大きな流れに呑み込まれていってしまう絶望感と諦念が綴られています。その後、数々の支援の元で無実を訴えはじめた菅谷さんは、2009年5月の再鑑定でDNA型が一致しないことが判明し、冤罪だったことが明らかになりました。その間にご両親を亡くしてしまったことはさぞかし無念だったことと思います。 この事件に関して、鑑定歴40年を超える東邦大学客員教授(法医学)高橋雅典氏のお話を伺うことができました。足利事件時代のDNA鑑定は「MCT118」という方法で、別人であっても1000分の1.2の確率で、DNA型も血液型も一致する可能性がありました。また鑑定技術も経験が必要なうえに、やる人によって結果の異なるような不安定なもので、高橋氏ご自身も苦労されたと言います。 現在、主流になっている「STR」法では、数十兆分の1にまで精度が上がっていて、ある程度訓練を積んだ人なら誰がやっても結果に差が出ないものになっているとのことです。ただ、一番大事なことは、いかに精度が高かろうが、DNAが一致したところで犯人とは限らず、アリバイその他の「状況証拠」による捜査の裏付けが必要だということです。また、裏を返せば、DNAが一致しなかったからといって、犯人ではないということでもないわけです。 警察庁が2010年に発表した『足利事件における警察捜査の問題点等について』によると、捜査による問題点として「DNA型鑑定結果の過大評価」と「迎合の可能性に対する留意の欠如」を挙げています。つまり、「科学捜査」と「自白」が根拠になったという主張です。本当にこれらが原因だったとするならば、どちらも「思い込み」によるものと言えます。であるならば、真面目に暮らしていたとしても、冤罪は他人事ではありません。いつの間にか思い込まれて、呑み込まれてしまう可能性は誰にでもあります。 「科学捜査」という言葉が持つ「絶対に正しそうな」イメージ。その先入観を根拠とした決めつけが冤罪という悲劇を生んでいるのだと思います。大きな事件になって初めて問題視されますが、身の回りにも無自覚な決めつけによる、小さな行き違いがたくさんあって、それらに気づこうとする意志こそが、大きな事件を予防することに繋がるのではないでしょうか。 (矢萩邦彦/studio AFTERMODE) ---- 矢萩邦彦(ジャーナリスト/アルスコンビネーター) 教育・アート・ジャーナリズムの現場で活動し、一つの専門分野では得にくい視点と技術の越境統合を目指す日本初のアルスコンビネーター。予備校でレギュラー授業を持ちながら、全国で私塾『鏡明塾』を展開。小中高大学でも特別講師として平和学・社会学・教育学を中心に講演多数。代表取締役を務める株式会社スタディオアフタモードでは若手ジャーナリスト育成や大学機関との共同研究に従事、ロンドンパラリンピックには公式記者として派遣された。