沖縄メディアの痛切な反省「報道管制がなかったらどんな新聞を作るべきだったか」琉球新報の『沖縄戦新聞』
■『沖縄戦新聞』を書いた記者に聞く 神戸:琉球新報で現在デジタル戦略統括を務める滝本匠さんにお話を聞きます。 琉球新報 統合編集局 デジタル戦略統括 滝本匠さん 大阪府出身。1998年、琉球新報社入社。社会部、八重山支局(石垣市)、政経部、東京報道部などを歴任。ワシントン特派員や政経部では基地問題を担当。共著に「呪縛の行方」「沖縄ダークサイド」「沖縄フェイク(偽)の見破り方」「琉球新報が挑んだファクトチェック・フェイク監視」。 神戸:どんなことを考えて企画したんですか? 滝本:戦前は「沖縄新報」でしたが、やはり「大本営発表をそのまま掲載する」紙面でした。戦意高揚、時代を盛り上げるような紙面を出した反省に立ち、「今の視点でなら、我々は当時の記事をどう書くんだろう」と考え、この特別紙面を出しました。 神戸:例えば1945年3月26日、「慶良間に米軍上陸」という紙面では、「座間味・渡嘉敷で『集団死』」という見出しがついていました。死を選ばざるを得なかった人たちがいたということです。こんなことは当時報道できなかったわけですね。 滝本:もちろんそうですね。そういうことがあったこと自体、全然書いていなかった状況です。 神戸:一方で、「当時の新聞はどういう記事を書いていたのか」も掲載されています。 滝本:当時の新聞がどういうふうに読者に状況を伝えていたのか。さらにそれがどういう影響を及ぼしていたのか。反省も込めてその紙面を掲載しています。 神戸:(1945年3月26日の社会面では)「追い詰められ『死』選択」「妻を子供を…『一緒に』」。こんな見出しは、現在の新聞の作り方だと思います。早稲田ジャーナリズム大賞の受賞理由では「この紙面を見て、やられたと思った新聞社は多かったはずである。戦後六十年の節目を飾るにふさわしい記念碑的事業といってよい」という高い評価を受けています。 神戸:カラー地図で、今の新聞のように「この地域でこんなことがあった」とカラフルに描かれている紙面もありますし、「当時はどうだったのか」と識者の分析があって、資料的価値も高いという印象があります。 滝本:今でも資料的にご活用いただいています。 ※琉球新報のオフィシャルネットショップで『沖縄戦新聞』販売中