これから特攻で「死にに征く者」が「残る者」に放った「なんとも意外なことば」
「隊長」尾辻中尉
角田と特務士官仲間の司令部の掌経理長(主計長を補佐し、経理の実務を司る)は、ときどき宿舎にやってきて、いろいろと面倒を見てくれた。 「何かほしいものはないか、食べたいものはないか」 すると誰かが、遠慮がちに、 「内地を出てから俸給をもらってないので、夕食後散歩に出ても小遣いがなくて困ります。俸給をいただけないでしょうか」 と言った。「空地分離」の弊害で、所轄部隊から履歴書、給与証明書などの身上関係書類が届かないから、俸給が出せないのだ。ちなみに角田は、俸給の半分は家族渡しに、あと半分は本人受け取りにしていた。海軍も役所だから、本人が戦死したり行方不明になると、その時点で俸給の支給はスパッと打ち切られる。それは、非情にも遺族に戦死公報が届くより早かった。角田は、 「俸給が支払われているうちは俺はどこかで生きている。止まったら戦死したと思うように」 と、妻にいい置いていたが、フィリピンに来てこの方、本人受け取りのぶんは一銭ももらっていない。掌経理長は困った顔をしたが、すぐに司令部にかけあって、 「これから1日1人あたりビール1本、光(煙草)2箱を支給する。これはとくに大西長官の心遣いです。光は市内で20円で売れるから、一個を小遣いにしてもらいたい」 と、手配してくれた。角田はこのとき、はじめて闇取引というものを知った。とはいえ、市内はすさまじいインフレがおさまる気配がなく、街でコーヒー一杯が15円、床屋の散髪も15円する。 このとき、隊長・尾辻中尉は自分の財布を角田に渡し、 「角田少尉は特務士官だそうですね。はじめ予備士官かと思い少々不服(予備士官の少尉だと、まだ経験が浅い)だったのですが、聞いて安心しました。どうか必ず生きて帰ってください。もし無事に帰られたなら、この財布のなかの印鑑を生家に送り届けて、私の最期の模様を親たちに話してやってください。なかの200円は、搭乗員たちを適当に遊ばせてやってください」 と、おだやかな口調で言った。尾辻中尉は海軍兵学校七十一期出身、飛行学生を卒えて間もない22歳の若い指揮官だった。角田は、自分より4歳年少にあたる尾辻中尉の堂々たる隊長ぶりに感銘をおぼえた。 司令部には、もう一隊の特攻隊が待機していて、隊長の予備士官の中尉は、朝から晩まで寸暇を惜しむように鉛筆を走らせ、書きものをしている。角田は、 「尾辻中尉もなにか書き残されませんか」 と声をかけた。尾辻は、 「いや、私はよいのです。兵学校に入ったときから戦死の覚悟はしておりますから、いまさら別に言い残すこともありません」 淡々と答えた。決死の覚悟にもさまざまな形がある、と、角田はまたも感じ入った。 戦後、角田は、世田谷山観音寺で営まれる特攻観音慰霊法要に毎年のように列席したが、そんなときも観音像の姿を見ながら、 「この観音様よりも尾辻中尉のほうがずっと観音様らしかった」 と、思い出すのがつねであった。