これから特攻で「死にに征く者」が「残る者」に放った「なんとも意外なことば」
特務士官の搭乗員
この日の命名式で、他の司令部職員や従兵とともに会場の設営をしていたのが門司親徳主計大尉である。 門司は、整列する少年のような搭乗員のなかで、1人だけ、見るからに歴戦の風格を備え、鼻の下に濃い髭をたくわえた特務士官の搭乗員がまじっているのに気づいた。 他の搭乗員とは明らかに違う「殺気」ともいえる雰囲気を発散し、これまで数多くの死地をくぐり抜けてきたであろうことは、実戦部隊の長い門司にはひと目でわかる。 ――それが、角田和男少尉だった。じっさいには角田はまだ26歳になったばかりだったが、戦争は人の形相や雰囲気を変える。するどい眼光。しかしその両目は澄み切った美しさをたたえ、同時になんとも言えない哀しみを宿しているのが見てとれて、門司は思わず胸を衝かれたという。 このとき編成された「第三神風特別攻撃隊」は、二〇一空で編成された「第一神風特別攻撃隊」、七〇一空で編成された「第二神風特別攻撃隊」に続く、二〇一空第二陣の零戦特攻隊で、「櫻花隊」「梅花隊」「左近隊」「白虎隊」「朱雀隊」「第二朱雀隊」など、これから先も続々と編成される。続いて七〇一空の艦爆主体の第二陣である「第四神風特攻隊」の、「鹿島隊」「神武隊」「神崎隊」「香取隊」の4隊が、前後して編成される。 編成された特攻隊は、敵艦隊発見の報告が入れば出撃していく。もはや、フィリピンの航空戦の主力は特攻隊と言っても過言ではなかった。 命名式を終えた尾辻中尉、角田少尉以下11名の梅花隊、聖武隊は、索敵機の敵情報告が入り次第、出撃できるよう、その日からさっそく30分待機の態勢に入った。「30分待機」とは、命令後30分で発進できる待機態勢のことである。 日の出から日が暮れるまで、隊員たちは司令部の芝生の庭で待機するが、ここで、南西方面艦隊司令部の軍楽隊が、隊員たちの無聊を慰めようと1時間ほどの演奏会を催したことがあった。軍歌や勇壮な曲ではなく、内地の流行歌が主だったという。角田は、「祇園小唄」が心に沁みたことをよく憶えている。 日没後は、宿舎にあてがわれたホテルに帰る。このホテルは、日本海軍将兵に「マニラホテル」と呼ばれていたが、正式な名前が何であったかまでは角田は知らない。簡易ベッドであっても、マニラの住環境は、マバラカットやセブよりはよほどましであった。 夜が明けると、司令部の前庭に置かれた木の長椅子に座って索敵機の報告を待つ。いまか、いまかと、時間の流れが息苦しい。しかし、搭乗員はみな表向き、落ち着き払った表情をしている。