これから特攻で「死にに征く者」が「残る者」に放った「なんとも意外なことば」
「頼んだぞ」の一言
「突然のことに頭のなかは真っ白になって、ひたすら緊張するばかりでした」 と、角田は回想している。 特攻隊を命ぜられる搭乗員は11名。その正面にずらりと並んだ将官、参謀の数はざっと見ても30人をゆうに超えるだろう。死地に赴く搭乗員よりも命ずる側のほうがはるかに多い、頭でっかちの海軍の末期的症状が、はっきりと現れていた。 11月1日付で三川軍一中将と交代した南西方面艦隊司令長官・大川内傳七中将、第二航空艦隊司令長官・福留繁中将、第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将が訓示をする。だが、その3人の言葉には、何か食い違ったものを感じる。 原稿のない訓示の正確な内容は残っていないが、角田によると、大西の言葉が、気魄のこもった、この長官も死ぬ気で命じていることが伝わる強い調子だったのに対し、福留中将の訓示は「1機1艦ぶつかれば、日本は勝てる」という通りいっぺんの調子であり、大川内中将のそれは、「日本が勝つために行ってくれ」と、どこか他人事のようなゆるさを感じさせたという。 3人の長官の背後には、数え切れないほどの参謀肩章が重なっている。角田は、 「ほんとうに1機1艦ぶつかれば戦争に勝てると思うのか、1機1艦命中しても、残るのは敵艦のほうだということぐらい、長官や参謀の誰かが零戦の後ろに乗って、レイテ湾上空をひと回りしてみればわかることだろうに」 と思った。が、思ってもそれを口に出せないのが軍隊である。 だが、そんな角田のもやもやした気分は、ほどなく吹き飛ぶことになった。角田は語る。 「大西中将は訓示のあと、緑の美しい芝生の上で、目に沁みるような白布に覆われた、長い机を前に並んだ搭乗員たちの顔を、右端に立った隊長・尾辻是清中尉から、閲兵式のように順に見て回られました。そして、私の前では、特に私の右手を両手で包むように握り、食い入るように目をするどく見つめて、『頼んだぞ』と、気魄のこもった声で一言、言われました。大きな、温かい手でしたよ」 大西は、昭和9年から11年にかけ、角田が予科練時代の教頭、漢口の十二空にいたときも、連合航空隊司令官として、角田の上官だった。予科練時代、「必勝の信念確立」という標語を掲げ、何が何でも勝たなくてはならない、という教育方針で練習生を鍛え上げたのが、角田には強く印象に残っている。 「その大西中将に、『やれ』という命令じゃなく『頼んだぞ』と言われた。私は中将の位がそれほど偉いとは思いませんでしたが、頼む、と言われたことで心のなかがカーッと熱くなるのを感じた。その瞬間、これまで抱いてきた不平、不満、疑問が全て消し飛んでしまい、完全に肚が決まりました」 梅花隊6名、聖武隊5名は、ともに尾辻中尉の指揮下に入る。角田少尉は、直掩機4機の指揮官ということに決まった。爆装7機、直掩4機という編成である。 いま思えば…………と、角田はさらに続ける。 「最初の敷島隊のとき、隊長の人選が長官の思い通りにいかなかったというのは、私もそうだろうと思います。長官は指宿正信大尉が志願して、下士官兵がそれに続くということを期待していたという噂でしたが、それはその通りだと思うんですよ。指宿大尉の名は海軍航空隊に轟いていましたから、指揮官が指宿さんなら部下は黙ってついて行きますよね。 攻めるときは海軍兵学校出身の士官が先頭に立つこと、退却のときは、兵から叩き上げたベテランの特務士官がしんがりをつとめ、落ちこぼれを出さないよう最後まで踏ん張る、これが海軍のしきたりだったんです。 だから、不時着した4名の搭乗員のなかから、いちばん古い、しかも妻子ある特務士官の私が特攻隊に残ったのは、大西中将にとっては、我が意を得たような思いだったのではないか。広告塔、というと語弊がありますが、これで若い下士官兵がついてくると思われたんじゃないか。だから特別に私だけ、両手で手を握って、『頼んだぞ』という言葉になったと思うんです」 命名式が終わると、海軍報道班員の新名丈夫記者が、梅花隊、聖武隊、それぞれの写真を撮った。